田中絹代 (TANAKA Kinuyo)
田中 絹代(たなか きぬよ、1909年12月29日 - 1977年3月21日)は、大正・昭和期の日本の俳優・映画監督。
黎明期から日本映画界を支えた大スターであり、日本映画史を代表する大女優の一人。
出演映画が世界三大映画祭(カンヌ・ヴェネチア・ベルリン)の全てで受賞しており、三冠を達成している(下記参照)。
また、日本で二人目の女性映画監督でもある。
来歴・人物
出生・下関から大阪へ
山口県下関市丸山町に父・田中久米吉、母・ヤスの四男四女の末娘として生まれる。
母ヤスの実家小林家は下関で代々続く大地主の商家で、久米吉はそこの大番頭であった。
二人は結婚して独立し、呉服商などを営む傍ら20軒ほども貸し家を持っていた。
裕福な家であったが、絹代が3歳になって間もない1912年(明治45)1月、久米吉が病死。
その後母は藤表(とうおもて)製造業を営んでいたが、使用人に有り金を持ち逃げされるなどの災難に遭い、一家の生活は徐々に暗転していった。
1916年(大正5)絹代は下関市立王江尋常小学校に入学するが、経済的困窮のため充分な通学ができない状況だったという。
この年20歳の長兄・慶介が兵役忌避をして失踪した。
このため、田中一家は後ろ指を指されることになり、そのことが一家の経済事情を更に悪くした。
翌1917年、一家の生活はついに行き詰まり、母ヤスの実兄を頼って大阪天王寺に移る。
更に翌1918年4月、絹代は天王寺尋常小学校の三年に編入した。
以後大阪で育つことになる。
戦前・戦中~アイドルスターとしての成功
幼少時より、琵琶を習い、1919年に、大阪楽天地 (大阪)の少女歌劇の舞台に立つ。
兄が松竹大阪支社で給仕として働いていた関係で、1924年に松竹下加茂撮影所に入所し、野村芳亭監督の『元禄女』でデビューする。
まもなく、当時新進監督だった清水宏 (映画監督)に『村の牧場』の主役に抜擢される。
松竹蒲田撮影所に移った後の1927年、五所平之助監督の『恥しい夢』が好評を博する。
その後、当時の人気スター鈴木傳明とのコンビで売り出し、松竹のドル箱スターとなり、会社の幹部に昇進する。
また、五所監督による日本初のトーキー、『マダムと女房』に主演し、トーキー時代になっても、スターとして迎えられる。
特に、上原謙とのコンビで1938年に公開された『愛染かつら』は空前の大ヒットとなり、シリーズ化された。
1940年には、溝口健二監督の『浪花女』に出演し、溝口監督の厳しい注文に応え、自信を深める。
戦後~演技派スター・女性監督へ
終戦後も、溝口監督の『女優須磨子の恋』や小津安二郎監督の『風の中の牝鶏』などに出演し、高い評価を得た。
1947年、1948年と連続して毎日映画コンクール女優演技賞を連続受賞する。
順調に見えた女優生活だったが、1950年、日米親善使節として滞在していたアメリカ合衆国から帰国した際、サングラスに派手な服装で投げキッスを行い、激しい世論の反発を受けてしまう。
それ以降、スランプに陥り、松竹も退社する。
この時期、メディアからは「老醜」とまで酷評されて打撃を受けている。
1952年に溝口監督が彼女のために温めてきた企画である『西鶴一代女』に主演する。
この作品はヴェネチア国際映画祭で国際賞を受賞し、彼女も完全復活を果たす。
翌1953年には同じコンビで『雨月物語』を製作、ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞する。
また、同年『恋文』を監督。
日本で二人目の女性監督の誕生であったが、このことが溝口監督との仲を疎遠なものにしたといわれる。
その後も、木下惠介監督の『楢山節考』、小津監督の『彼岸花』への出演、京マチ子主演の『流転の王妃』の演出など、常に映画界をリードする活躍を続けた。
1970年の『樅ノ木は残った (NHK大河ドラマ)』に出演以降、テレビドラマにも活躍の場を広げ、『前略おふくろ様』の主人公の母親役や連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のナレーションなどで親しまれた。
1974年に主演した熊井啓監督の映画『サンダカン八番娼館 望郷』の円熟した演技は世界的に高く評価され、ベルリン国際映画祭銀熊賞 (女優賞)、芸術選奨文部大臣賞を受賞した。
1977年3月21日、脳腫瘍のため死去、。
最晩年、病床についた彼女は「目が見えなくなっても、やれる役があるだろうか」と見舞いに来た者に尋ねたという。
死後、勲三等瑞宝章が授与された。
同年3月31日、映画放送人葬が行われ、5000人が参列した。
法名 (浄土真宗)は、迦陵院釋尼絹芳。
墓所は神奈川県鎌倉市の円覚寺にある。
神奈川県逗子市にあった自宅敷地は「絹代御殿」と呼ばれるほどの風格ある建築物だった(元は政治家の別宅)。
田中の没後も料亭として建物を保存していたが、店舗閉店後にみのもんたが買収し、解体された。
没後の顕彰
1985年には、従弟の小林正樹監督により、毎日映画コンクールに「田中絹代賞」が創設され、映画界の発展に貢献した女優に贈られることとなった。
第1回受賞者は吉永小百合。
「恋多き女性」としても有名で、清水宏監督との同棲生活と破局、慶應義塾大学野球部の花形スターだった水原茂とのロマンスなどは大きな話題となった。
その波乱に富んだ一生は、1987年に市川崑監督、吉永小百合主演で『映画女優』というタイトルで映画化された。