畠山国清 (HATAKEYAMA Kunikiyo)

畠山 国清(はたけやま くにきよ、生年不詳 - 1362年(貞治元年/正平 (日本)17年))は、南北朝時代 (日本)から室町時代の武将である。
本姓は源氏。
家系は清和源氏の一流 河内源氏の流れを汲む足利氏の庶家 畠山氏。
紀伊守護を経て関東管領となる。
父は畠山家国。
兄弟に畠山義深、足利基氏の室となった清渓尼など。
子に畠山義晴。
左近将監。
阿波守。
左京大夫。
修理大夫。
法名は道誓。

足利尊氏に従い鎌倉幕府討幕、建武の新政から離反した後の南朝との戦いで和泉国、次いで紀伊国の守護となる。
のちに河内国の守護にもなり、畿内に勢力を広げた。
足利家の内紛から発展した観応の擾乱では尊氏の弟である足利直義に属した。
政争に敗れた直義が京都を脱出して吉野の南朝 (日本)に属すると国清も従うが、後に尊氏方に付く。

尊氏が関東地方の統治のために設置した鎌倉公方の足利基氏を補佐する立場の関東管領となり、伊豆国の守護となった。
遠縁である秩父氏ら平一揆を率い権勢を振るった。
1359年(正平14年/ 延文4年)、2代将軍足利義詮からの援軍要請を受け、関西に攻め上った。
しかし陣中で仁木義長と対立。
幕府執事(管領)の細川清氏と協力し、義長を政治から失脚させる。
しかし、1360年には、今度は細川清氏が義詮と対立し失脚することになり、政治的に苦しい立場となった。
国清は軍勢と共に関東へ無断で帰還する。
すると清氏の投降により攻勢に出た南朝により京が一時失陥する事態を招くことになり、これにより国清はますます面目を失うことになった。

康安元年(1361年)11月、かつての直義派の武将達から基氏に対して国清の罷免の嘆願が出ると、国清は失脚し領国の伊豆へ逃れた。
捲土重来を期し伊豆で挙兵したが、翌1362年9月には討伐軍に攻められ没落、南朝の庇護を求めて流浪の内に窮死した。
斬殺されたとも伝わる。

畠山氏のうち、河内国の守護に任命されたのは国清が最初であり、河内畠山氏の実質的な祖は国清であるといえる。

[English Translation]