白根専一 (SHIRANE Senichi)
白根 専一(しらね せんいち、嘉永2年12月22日 (旧暦)(1850年2月3日) - 明治31年(1898年)6月14日) は日本の明治時代の内務官僚、政治家。
長門国出身。
愛媛県知事、愛知県知事、内務次官、逓信大臣、宮中顧問官などを歴任。
男爵。
略歴
嘉永2年12月22日(1850年2月3日)、長州藩士で後の埼玉県令、白根太助の次男に生まれる。
長州藩校明倫館、次いで慶応義塾に学ぶ。
明治5年、下級官僚となり、内務省で累進していく。
明治21年(1888年)2月から愛媛県知事。
同年12月から愛知県知事。
翌明治23年5月、第1次山縣内閣の内閣改造時に西郷従道内務大臣のもとで内務次官となる。
同年の帝国議会開設に当たっては、政府委員12名の一人となった。
明治25年(1892年)の中央交渉会、国民協会 (日本)の成立にも関与。
明治24年-25年(1891年-1892年)の第1次松方内閣では、内務大臣品川弥二郎の下で、引き続き内務次官を務める。
明治25年(1892年)の第2回衆議院議員総選挙において、品川と白根は、つながりの深い「古参地方官」(地方の有力知事)や警察を動かして大規模な選挙干渉を行い民党側を圧迫。
後日、品川は選挙干渉の責任を追及され、これに関する松方内閣の対応に辟易して辞任。
白根は後任の内務大臣副島種臣が選挙干渉の責任者の処分を断行しようとしたことに反発してこれを辞任に追い込む。
しかし松方は最終的に白根を罷免し、動揺した第1次松方内閣は閣内意見の対立から8月に崩壊する。
同年10月から、宮内省内蔵頭。
明治28年(1895年)10月、第二次伊藤内閣の改造時に、逓信大臣となる(1895年10月9日-1896年9月26日)。
明治30年(1897年)2月7日、男爵を叙爵。
明治31年(1898年)6月、胃癌のため死去。
人物
長州藩閥の父をもち、藩閥第二世代に当たるが、彼自身は内務官僚として、長州閥よりも内務省の立場を優先する傾向があった。
職務に精通し、内務次官時代には実質的には内務大臣をしのぐ影響力を省内に及ぼしていた。
品川弥二郎は、陸奥宗光に対して、白根を「壮士次官」をして紹介している。
同じ長州出身の元老山縣有朋ともつながりが深く、山県系と見なされる。
民党側にあった中江兆民は「一年有半」(1901年)の中で「余近時に於いて真面目なる人物、横着ならざる人物、ヅウヅウしからざる人物、ただ両人を見たり、曰く井上毅、曰く白根専一。
今や即ち亡し」と惜しんでいる。
白根松介は嗣子。
白根竹介は甥。