百済河成 (KUDARA no Kawanari)
百済河成(くだらのかわなり、延暦元年(782年) - 仁寿3年8月24日 (旧暦)(853年9月30日))は、平安時代初期の画家。
元の姓は余(あぐり)。
百済人の子孫。
生い立ち
武芸に長じ良く強弓を引いたという。
大同中左近衛となり、絵画にすぐれていたので宮中にめし出され、妙技をふるったという。
写し取った山川草木は精妙で生きているようであった。
かつて宮中で外にいる自分の従者を呼んでもらおうとしたところ、誰もその従者の顔を知るものがなく、河成は似顔絵を描きそれによって速やかに連れてこさせることができたという逸話がある。
弘仁14年に美作権少目となり、外従五位下に叙せられた。
承和年間に備中介・播磨介に任ぜられ「百済朝臣」という姓を賜り、従五位下に進み、安芸国介に遷った。
個人名の残っている最初の画家で名人として伝説は多いが、作品は残っていない。