相馬愛蔵 (SOMA Aizo)

相馬愛蔵(そうま・あいぞう、1870年 - 1954年)は、長野県出身の社会事業家、東京新宿中村屋の創業者である。

来歴

愛蔵は、明治3年長野県安曇郡白金村(後に穂高町、現安曇野市)の農家に生まれ、長野県松本深志高等学校を3年で退学し、東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学した。
在京中、愛蔵は友人に誘われ、市ケ谷の牛込教会に行くようになり、キリスト教に入信、洗礼を受けた。
内村鑑三らの教えを受け、田口卯吉(歴史家、実業家)に接する機会も得た。

明治23年、卒業と同時に北海道に渡り、札幌農学校で養蚕学を修め帰郷した。
明治24年、家業として蚕種製造を始め、『蚕種製造論』の著者として早くから全国の養蚕家に注目された。

明治24年、愛蔵はキリスト教精神に則り、東穂高禁酒会を提唱し、都会に憧れ、新しい知識を求めようとする村の青年たちに、キリスト教を語り、禁酒を勧めた。
この禁酒運動は、明治27年、村に芸妓を置く計画に対し、反対運動を展開、豊科署に請願を提出し、廃娼運動も行った。

また、この志を同じくする1人に、愛蔵の友人の井口喜源治がいた。
井口は県尋常中学松本支校(現・松本深志高等学校)時代、英語教師のエルマー宣教師に出会い、すでにキリスト教の感化を受けていた。
愛蔵はこの井口を助け、キリスト教に基づく私塾である「研成義塾」を起こすことにも協力した。

のち、孤児院基金募集のため仙台市へ出掛け、仙台藩士の娘・相馬黒光(黒光、1876年 - 1955年)を知り、明治31年結婚。
良は養蚕や農業に従ったが健康を害し、その療養のため上京し、そのまま東京に住み着くことになった。

明治34年東京帝国大学赤門前の中村屋を譲り受け、パン屋を始め、明治37年にはクリームパンを発明した。
その後、明治40年には、新宿に移り、42年には現在地に開店した。

愛蔵は高給を払って、外国人技師を採用し、次々に新製品を考案するなど、中華饅頭、月餅、ロシヤチョコレート、朝鮮松の実入りカステラ、インド式カリーなどの国際商品でデパートの進出に対抗した。
また食堂、喫茶なども経営して次第に大きくなり、現在の中村屋隆盛の礎を築いた。
一方、店員の人格、資質の向上のために研成学院を創立した。
愛蔵の商業道徳は、無意味なお世辞を排し良品の廉価販売に徹したことにある。

また、愛蔵は店の裏にはアトリエをつくり、荻原碌山、中村彝、中原悌二郎、戸張狐雁らの出入が盛んとなり、大正4年には、インドの亡命志士ラス・ビハリ・ボースを右翼の重鎮・頭山満に頼まれてかくまい、大正7年には、長女俊子がボースと結婚した。
その縁で、中村屋は日本初のインド式カレーを学び発売することにつながった。

相馬黒光夫人も荻原碌山の終生のパトロンであったし、ロシアの盲詩人エロシェンコの面倒をみたり、木下尚江との交友もあって中村屋はまさに文芸サロンであり、夫人はサロンの女主人公であった。

愛蔵は、昭和29年85歳で永眠し、黒光夫人も翌年80歳で死去している。

人物

関東大震災で難民となった人々が新宿へと逃れてきたとき、便乗して高額な商品を売りつけるような真似をせず、安価なパンなどを連日販売して人々の飢えを満たした。
『奉仕パン』『地震饅頭』などと大書して販売してた写真が現存している。

昭和金融恐慌で取り付け騒ぎが発生し、取引先の安田銀行に預金を確保しようとする人の列が出来た。
その際、部下に金庫の有り金を全て持たせてかけつけさせ、「中村屋ですがお預け!」と大声を出させることによって群衆のパニックを収めた。

著書

『蚕種製造論』
『秋蚕飼育法』
『一商人として』 - 商人のあるべき姿と商売の要諦を教示
『私の商賣』 - 商人としての面白さ、喜びを記した本
『商店經營三十年』 - 新宿への百貨店進出に対する策をまとめた本

[English Translation]