神屋宗湛 (KAMIYA Sotan)

神屋 宗湛(かみや そうたん、天文 (元号)20年1月1日 (旧暦)(1551年2月6日) - 寛永12年10月28日 (旧暦)(1635年12月7日))は戦国時代 (日本)から江戸時代前期にかけての博多の豪商。
神屋氏の第6代当主。
出家前の諱は貞清。
「神谷」は誤り。

宗湛以前からすでに神屋氏は豪商としての地位を築いていた。
曽祖父の神屋寿貞は石見銀山の本格的開発に携わった人物であった。

天正10年(1582年)、宗湛は島井宗室と共に上洛して時の天下人・織田信長に謁見した。
宗湛は信長の保護を得ることで、当時九州で日の出の勢いで勢力を拡大していた島津氏を抑えるとともに、豪商としての地位をさらに極めようとした。
しかし、同年6月に本能寺の変が起こって信長が死去したため、これは失敗に終わった。

天正14年(1586年)、再度上洛して今度は畿内の諸大名や堺市の大商人・津田宗及らと親交を深めた。
同年、大徳寺にて出家し、宗湛と号した。

天正15年(1587年)、信長死後に天下人となった豊臣秀吉に謁見した。
宗湛は秀吉に気に入られ、豪商としての特権を与えられて以後は博多商人の第一人者として栄華を極めた。
秀吉の九州征伐においても、それを資金的に援助している。
文禄元年(1592年)から始まった朝鮮出兵においても後方兵站の補給役を務め、晩年の秀吉の側近として活躍した。

しかし慶長3年(1598年)に秀吉が病死すると、その後に天下人となった徳川家康からは冷遇された。
そして関ヶ原の戦いの後に黒田長政が移封されると、宗湛は天下の大商人から黒田氏の御用商人にまで成り下がった。
彼自身も老齢ということもあって、以後は豪商としての活躍も無く、寛永12年(1635年)10月28日に83歳で病死した。
墓所は福岡市の妙楽寺。

宗湛の著作として『宗湛日記』がある。
これは宗湛が秀吉時代に活躍したことをまとめた茶会記である。
後世の偽書とも疑われるが、秀吉政権の内部を知る上では貴重な史書の一つともされる。
また津田宗及の『天王寺屋会記』、今井宗久の『今井宗久茶湯書抜』、松屋久政の『松屋会記』と並ぶ四大茶会記ともされる。

[English Translation]