稲葉正成 (INABA Masanari)

稲葉 正成(いなば まさなり、1571年(元亀2年)- 1628年10月14日(寛永5年9月17日 (旧暦)))は、戦国時代 (日本)、江戸時代の武将。
美濃国十七条藩主、越後国糸魚川藩主、下野国真岡藩初代藩主。
正成系稲葉家宗家初代。

林政秀の次男。
母は安藤某の娘。
正室は稲葉重通の娘、継室は稲葉重通の養女・福(春日局、斎藤利三の娘)、継々室は山内康豊の娘。
子は稲葉重通の娘との間に稲葉正次(長男)、娘(堀田正吉正室)。
春日局との間に稲葉正勝(次男)、稲葉正定(三男)、稲葉正利(五男)。
山内康豊の娘との間に稲葉正吉(十男)、娘(朽木稙綱 (土浦藩主)正室)。
養子は稲葉政貞。

はじめ林姓であったが、後に、美濃国の稲葉重通の婿となり、姓を林から稲葉と改めた。
ところが、重通の娘に先立たれたために代わりに重通の姪である福を養女として正成に嫁がせた。
これが後の春日局である。
正成は義父とともに豊臣秀吉に仕えたが、秀吉の命を受けて小早川氏に入った小早川秀秋の家臣(家老・5万石)となり、秀秋を補佐した。
四国・小笠原征伐で活躍し、朝鮮出兵(慶長の役)では秀秋に従軍した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、平岡頼勝と共に徳川家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らせることに成功した。
しかし、戦後秀秋と対立し美濃に蟄居する。

慶長7年(1602年)、秀秋が死去して小早川氏が断絶すると浪人となる。
慶長9年(1604年)7月、家康の嫡孫・竹千代(後の徳川家光)の乳母が京都所司代板倉勝重によって募集された折に妻の福が志願して採用されると、福と離縁した。
その経緯については諸説あるが、正成が愛人を作ったと知った福が激怒して家を去ったとする説、勝手に乳母に応募したことに激怒した正成が離縁した説、乳母に採用されたことを知って「女房の御蔭で出世した」と言われるのを恥じて離縁状を出した説、更にこれらの出来事は全て口実で正成を家康に仕官させるために正成と福が示し合わせて離縁したとする説などがある。

後に家康に召し出され、以後は徳川氏の家臣として仕える。
慶長12年(1607年)には旧領の美濃国内に1万石の領地を与えられ大名に列した(十七条藩)後、家康の孫にあたる松平忠昌の家老となる。
大坂夏の陣では忠昌を補佐して戦功を挙げて、元和 (日本)4年(1618年)越後糸魚川に2万石の所領を与えられた。
寛永元年(1624年)、忠昌の越前転封に従わず再び浪人し、子の正勝の領内で蟄居を命ぜられる。
寛永4年(1627年)、独立した大名として再び召し出され下野真岡2万石に封じられる。

山内一豊とともに妻の「内助の功」の典型例とされる場合が多いが、関ヶ原や大坂の陣で武将としての力量を発揮しており、決して妻の縁だけで出世したわけではない。

子孫は、山城国淀藩藩主として明治維新まで続いた。

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