竹越与三郎 (TAKEKOSHI Yosaburo)
竹越 与三郎(たけこし よさぶろう、慶応元年10月5日 (旧暦)(1865年11月22日)-昭和25年(1950年)1月12日))は、明治から昭和にかけての歴史家・評論家・政治家。
号は三叉(さんさ)。
経歴
武蔵国本庄宿(現在の埼玉県本庄市)の酒造業清野仙三郎の次男として生まれる。
明治14年(1881年)に上京して中村敬宇の同人社を経て福沢諭吉の慶應義塾に入学して翌年中退する。
明治16年(1883年)に新潟県柏崎市出身の伯父・竹越藤平の養子となる。
この年、時事新報社に入社するが官民調和の臨調に反発して翌年退職する。
小崎弘道の勧めで群馬高崎教会に住んで英語塾を開く。
明治19年(1886年)8月、小崎弘道よりキリスト教の洗礼を受ける。
同年、前橋英学校の教員に招かれた。
その後、基督教新聞や大阪公論の記者を務める。
その頃、湯浅治郎の紹介で徳富蘇峰と知り合い、民友社及び国民新聞の創刊の手伝いをする。
明治22年(1889年)に正式に民友社に入ると、明治23年(1890年)2月1日の国民新聞創刊時より政治評論を担当した。
この年11月7日、オリバー・クロムウェルの伝記である『格朗穵(クロムウェル)』を刊行して在野史家としてデビューを飾る。
翌明治24年(1891年)7月より全3巻の予定で明治維新史を政治・外交・経済・宗教の側面より分析した『新日本史』を刊行を開始。
実証的な史料批判の不十分さはあるものの、日本初の本格的な現代史書としてこれまでの編年史・考証史とは一線を画した(ただし、下巻は未完に終わる)。
この中で明治維新を内外の危機的状況で国民の活力が発揮された「乱世的革命」と位置づけて王政復古史観や佐幕・勤皇・藩閥論に対して強く批判した。
明治26年(1893年)には、民友社「十二文豪」シリーズの1冊としてトーマス・マコーリーの伝記を担当する。
また、山路愛山とも親交を結び、民友社を代表する史論家として知られるようになった。
ところが、日清戦争を機に国粋主義に傾倒していった蘇峰を竹越が批判したことから対立し、明治28年(1895年)12月に民友社を退社する。
その後、再び時事新報社に入るが、陸奥宗光・西園寺公望らの世話を受けて、明治29年(1896年)に『世界の日本』の主筆に迎えられた。
同年開拓社より、代表作となる日本通史『二千五百年史』が刊行された。
伴信友の『史籍年表』などを元にして古代から明治維新までの歴史を描き、神武天皇の東征を天孫人種と土着人種の民俗対立と捉えた。
南北朝正閏論においては北人(武家方)が苛察収斂な王朝党(南人/公家方)を圧倒して時代精神になったと論じるなどした。
そして、文明史の立場から皇国史観とは違う視点から日本史を論じて版を重ねた。
陸奥の死後は西園寺の側近としても活躍し、明治31年(1898年)1月に成立した第3次伊藤内閣に西園寺が文部大臣として入閣すると、竹越は大臣秘書官兼文部省勅任参事官に任命された。
だが、西園寺は4月末で大臣を退任したために竹越もわずか4ヶ月の在任に過ぎなかった。
その後、欧州視察を経て、明治35年(1902年)の第7回衆議院議員総選挙において新潟県郡部区より立憲政友会から立候補して初当選、以後5回連続で当選を果たした(第11回衆議院議員総選挙では群馬県前橋市区に選挙区を移して当選、また一時中正会に籍を置く)。
その後、欧米や南洋地域の視察を行って日仏協会設立に尽力したり、明治39年(1906年)には読売新聞主筆に就任するなど、評論活動を続けている。
大正4年(1915年)の第12回衆議院議員総選挙で大隈信常(大隈重信養子)に敗れて落選した竹越は本野一郎らと「日本経済史編纂会」を結成し、大正8年(1919年)から翌年にかけて『日本経済史』全8巻を刊行した。
竹越は「歴史の第一原因は経済的要因」にあると唱えた。
大正11年(1922年)に宮内省臨時帝室編修局御用掛に任命され、ほどなく編修官長に転じて『明治天皇紀』編纂の中心的役割を担った(ただし、後に竹越が書いた草稿を読んだ竹越夫人の甥である中村哲 (政治学者)は、最終的に金子堅太郎・三上参次らがまとめた現存の『明治天皇紀』との大きな違いの存在を指摘している)。
この年貴族院議員に任じられ、政友会系の交友倶楽部に属した。
昭和5年(1930年)には西園寺公望の半生を記した伝記『陶庵公』を執筆する。
昭和15年(1940年)には枢密顧問官に転じるが、軍部の圧迫で『二千五百年史』が発売禁止になるなどの圧迫を受けた。
更に東京大空襲で蔵書や原稿を焼失した。
戦後、枢密院廃止後は一切の公職から退く。
昭和22年(1947年)に公職追放処分を受けた。
竹越の著作は歴史上における国民または個人の思想動向とその分析の重要性と時期区分とその変化の法則性把握を提唱し、歴史における経済的要因を重視するなど、市民的立場からみた発展的歴史観を示した。
また、ブルジョワ自由主義・ダーウィニズム的文明史観の立場から私有財産の永続性と個人の自由を人類史の到達点とみなして、社会主義や軍国主義には強く反対して以後の彼の政治活動を規定するに至った。