策彦周良 (SAKUGEN Shuryo)

策彦周良(さくげんしゅうりょう、文亀元年4月2日 (旧暦)(1501年4月19日) - 天正7年6月30日 (旧暦)(1579年7月23日))は、戦国時代 (日本)の臨済宗の禅僧、外交官。
号は策彦のほか謙斎、怡斎、怡雲子など。

文亀元年(1501年)、室町幕府管領細川氏の家老井上宗信の三男として丹波国に生まれる。
永正6年12月24日 (旧暦)(1510年2月2日)に、京都北山の鹿苑寺の心翁等安のもと仏門に入る。
同8年に起きた船岡山合戦で鹿苑寺から焼け出され、師とともに丹波に逃れる。
永正15年(1518年)、18歳に至って天竜寺にて剃髪、具足戒を受け、諱を周良とする。
五山文学の影響下、等安から漢籍・詩文の手ほどきを受け、漢文力を磨く。
大永2年(1522年)に師の等安が入寂。
天竜寺の塔頭妙智院の住職となる。

二度の入明
天文 (元号)6年(1537年)周防国の戦国大名大内義隆の主催により、明に勘合貿易船(遣明船)を派遣を計画した際に、副使に任命される(正使は湖心蹟鼎)。
寧波の乱以降、日明貿易の主体は大内氏に移っていたが、形式上は室町幕府の正式な使節であった。
実際には翌々年の4月19日 (旧暦)(1539年5月7日)に3隻に分乗した460名の船団を率い五島列島を出帆する。
同5月2日温州府に到着。
しばらく同地に滞在し、翌年3月2日北京市に入城、朝貢任務を果たす。
5月28日 (旧暦)(7月2日)に北京を離れて寧波へ向かい、風待ちの後、帰国したのは同10年6月26日 (旧暦)(1541年7月19日)であった。

天文16年(1547年)には二度目の渡明を命じられ、今度は正使として4隻630名あまりを率い5月20日 (旧暦)(6月7日)に同じく五島の奈留島から出発。
途中海賊に襲撃され死者89人を出すも、6月1日に入明。
ただし、当時の明側では日本を「十年一貢の国」(十年に1度しか朝貢貿易を許可しない国)としていたため入国を拒否された。
翌年3月10日(1548年4月18日)に至ってようやく寧波上陸を許され、4月18日北京入り。
再び正使として朝貢任務を果たし、同19年6月9日 (旧暦)(1550年7月22日)、大内氏の本拠山口へ3年ぶりに帰着した。
翌年、陶晴賢の下克上により、大内義隆が自害、事実上大内氏が滅亡したため、これが最後の遣明船となった。

二度に渡る遣明船往来の詳細を『策彦入明記』として克明に記録しており、末期の日明貿易を知る上での貴重な史料となっている。

著名人との交流と隠棲
弘治 (日本)2年には駿河国へ下向、11月17日 (旧暦)(1556年12月18日)には今川義元主催の詩歌会に参加し、同地に滞在中の三条西実澄・山科言継らと同席している。
同年から翌年にかけて、武田信玄に招かれて甲斐国に赴き、恵林寺住職となって滞在。

正親町天皇からの信頼も篤く、勅命により曲直瀬道三の著『啓迪集』の序文を寄せている。
この他にも織田信長をはじめ、五山の碩学として多くの公家・武士らと交流したが、自身はあまり世に出るのを望まず、住職として妙智院で隠棲し、天竜寺の護持に務めた。
また、詩文にすぐれ『謙斎詩集』『城西聯句』『漢倭聯句』など、五山文学史に多くの作品を残している。

天正7年(1579年)6月末日に入寂。
享年79。

[English Translation]