粟田真人 (AWATA no Mahito)
粟田 真人(あわた の まひと、生年不詳 - 養老3年2月5日 (旧暦)(719年2月28日))は、飛鳥時代後期から奈良時代にかけての貴族。
遣唐使。
粟田氏は春日氏・和珥氏らと同系で山城国に本拠を持つ一族。
粟田島の子。
正三位・中納言。
経歴
生年は不明。
天武天皇10年(681年)冠位・官位制度の変遷(後の従五位下に相当)となる。
同13年(684年)八色の姓制定に伴い、朝臣を賜る。
持統天皇3年(689年)には太宰府となり、隼人174人、布50常、牛鹿皮50余枚を献上した。
また、忍壁皇子・藤原不比等らとともに大宝律令の編纂に参画した。
大宝 (日本)元年(701年)正月には直大弐(従四位上)民部省に任ぜられ、あわせて遣唐使に任命され、文武天皇から節刀を授けられた。
これが天皇が節刀(遣唐使や征夷将軍などに軍事大権の象徴として授けられた)を授けた初例という。
翌702年5月に参議となって朝政に参加。
同年6月大宝律令を携えて唐(正確にはこの時代、唐は存在しておらず、武則天(則天武后)が新たに建てた武周である)へ渡った。
663年の白村江の戦いで倭と唐が敵対して以来初の本格的な使節派遣である。
国交回復の意味を持った遣使であると同時に、律令制度の整備や、倭から日本への国号変更の通達など、様々な目的を持った使節であった。
同遣唐使には山上憶良や道慈らも加わっている。
翌年、都の長安に到着、武則天に謁見した。
唐人からは「好く経史を読み、属文を解し、容止温雅なり」と評されたという。
武則天からは司膳員外郎に任ぜられた。
慶雲元年(704年)、白村江の戦い以来捕虜になっていた者を連れて帰国。
功績により大和国に田20町、穀1000石を賜った。
入唐で得た知識を生かすべく慶雲の改革において中納言に任命された。
律令制施行直後の体制改革に参画。
のち大宰帥などにも歴任され、霊亀元年(715年)には正三位に昇った。
養老3年(719年)2月5日に死去。