紀安雄 (KI no Yasuo)

紀 安雄(き の やすお、弘仁13年(822年) - 仁和2年5月28日 (旧暦)(886年7月7日))は、平安時代の貴族。
苅田種継の子。
本姓は苅田氏(かりたのおびと)だが、安雄は紀朝臣の賜姓を受けた。

経歴

『日本三代実録』の卒伝(仁和2年5月28日丙午条)によれば、安雄は左京の出身。
父は讃岐国の国人であり、大学博士をして従五位下に叙された苅田種継である。
仁明天皇は経学を深く尊ばれ儒学者を度々呼んだが、御前で論ずる者は居なかった。
そこで、御船氏主を大学教授に苅田種継を助教に任じて両名を呼び寄せ、経学について論じるよう命じた。
御船氏主は礼について論じ、苅田種継は伝を採り上げて激しい論戦となったが遂に決着は着かなかった。
この当時の怪力の持ち主といえば左近衛の阿刀根継と右近衛の伴氏永で、二人は相撲の最手であり天下に並ぶ者はいなかった。
仁明天皇はまさに氏主を氏永、種継を根継に見立て、両人に力比べをさせたのである。

安雄は仁明天皇より紀氏の姓を授かり京職の官人となった。
安雄は幼少より学に励み世に出てこれが適ったのである。
性格は度量が広くゆったりとしており、従順であった。
最初は博士候補生となり、天安 (日本)2年(858年)に大学直講(明経博士の別枠)となった。
貞観 (日本)年間に入り渤海国王の使いが訪れたため朝廷は見識者を募集した。
この時より安雄は存問使と領客使を兼務することとなる。
貞観5年(863年)、従五位下に叙され助教となる。
その折、勅によって有識な公卿や大夫を選別することとなり、安雄はその式(規律)の選定を受託した。
同11年(869年)、勘解由次官と下野国介を兼務することとなった。
同16年(874年)従五位上に叙され、同18年(876年)に主計頭に転任となり、翌年に武蔵国守となって京を出た。
規律を重んじて恩情を排除したので、官人も民衆もたいへん安定したという。
任期を満了して京に戻り、元慶6年(882年)、鋳銭長官と周防国守を兼務することとなった。
武蔵での業績の評判も聞えなくなった。
安雄は専ら経学の修業に勤しみ、すこぶる美しい言葉を習った。
重陽の節には文人を召して交わった。
老衰のため65歳で亡くなった。

[English Translation]