細川政元 (HOSOKAWA Masamoto)

細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代中後期の守護大名。
室町幕府の管領の一つである細川氏の当主。
父は細川勝元で、母は不明。
勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)を母とする説もあるが、根拠となる史料は無い。
実子はなく、養子に細川澄元、細川澄之、細川高国。

管領として幕政を牛耳り京兆家の全盛期を築くが、3人の養子を迎えたことで家督争いを引き起こし、自らもその争いに巻き込まれて家臣に暗殺された(永正の錯乱)。

家督相続

文正元年(1466年)、細川勝元の嫡男として生まれる。
文明 (日本)5年(1473年)、応仁の乱の最中に病死した勝元の後継として、わずか8歳で家督を相続。
丹波・摂津・土佐守護に就任する。
幼少のため、細川政国の補佐を受けた。

文明6年(1474年)、西軍方の山名政豊と和睦する。
文明18年(1478年)に元服し、足利義政の偏諱を受けて政元と名乗る。
管領に任じられたものの、短期間で辞職している。

クーデターによる政権奪取

延徳元年(1489年)、将軍・足利義尚は六角討伐の最中、近江国で陣没する。
政元は次期将軍として堀越公方・足利政知の子・香厳院清晃(足利義澄)を推挙するが、日野富子の後押しの結果、足利義視の子・足利義稙(のち義稙)が10代将軍に就任する。
結果に不満であった政元は、やがて幕府に距離を置き始める。
義材の将軍就任は、義視と畠山政長の権勢が高まることとなり、延徳3年(1491年)1月に義視が死去した後は、政長が権力を独占するようになる。

明応2年(1493年)、将軍・義材は政長と共に畠山義豊討伐のため河内国へ出兵する。
4月、京都に滞在していた政元はクーデターを決行、香厳院清晃を第11代将軍として擁立する(明応の政変)。
この政変により、当初は政長方であった赤松政則も政元に寝返ったため、孤立無援となった政長は自害、捕らえられた義材は京都竜安寺に幽閉された。
明応3年(1494年)、香厳院清晃を将軍職に就けて管領に任じられた結果、政元は将軍を事実上の傀儡にして幕政を牛耳るに至った。

諸勢力との戦い

政変後、越中国へ亡命していた義稙(義材)は、明応8年(1499年)に北陸の兵を率いて近江国にまで侵攻するが、政元はこれを破り、同じく義稙に呼応した畠山尚順をも撃破する。

一方、政元は生涯独身を通し、山伏信仰に凝って諸国を放浪するなどの奇行があり、幕政を混乱させることもあった。
こうした気分屋的な傾向、そして実子が無かったことは京兆家の家督相続問題にも反映した。
文亀2年(1502年)、九条家から家督相続を条件に澄之を養子として迎えるが、文亀3年(1503年)5月、分家である阿波細川家から澄元を養子として迎えて家督相続を約束したため、政元は澄之を廃嫡する。
その結果、澄之・澄元両派の対立が先鋭化するに至る。

永正元年(1504年)9月、摂津守護代・薬師寺元一の謀反を鎮圧し、永正3年(1506年)に河内の畠山義英を討伐、大和国へ侵攻する。
永正4年(1507年)には紀伊国、さらに丹後国・丹波国の一色義有をも侵攻するなど、自らの勢力の拡大を図った。
こうして、政元は京兆家の全盛期を築き上げる。

ところが、政元はこのような戦乱を嫌悪したのか、修験者として陸奥国で廻国修行をしたいと言い出して、家臣の三好之長の諫言によって断念させられる。
永正4年(1507年)6月23日、澄之派に懐柔された警護役の竹田孫七・香西元長・薬師寺長忠によって、湯殿で行水をしていたところを襲われて殺された(永正の錯乱)。
享年42。

これ以降、京兆家は内紛を重ねて急速に没落していくことになる。

人物・逸話

生前の奇行や死後の内紛などのため、これまで後世の評価は芳しくはなかったが、近年では管領の地位を長期間にわたって保ち、なおかつ将軍の廃立すら行った政元の時代こそが細川京兆家の全盛期であったと見るのが通説となっている。

幕政を牛耳り、当時では勢力随一の大名であったことから半将軍と称された。

独身を貫いたのは修験道に凝ったため、あるいは深く衆道を好んだからなどの諸説がある。

修験道に凝って政務を放棄し、京都から離れて丹波国などまで赴くことがあったため、家宰の安富元家や家臣の庄元資、三好之長らによって連れ戻されることもあったといわれる。
安芸宍戸氏の出身の司箭院興仙(宍戸家俊)を修験道の師とした。

諸国放浪の際、各地の守護らと会見を持っており、自派勢力拡大のための政治目的もあったとされている。

政元は優れた人物と言い難い一面があるが、家臣に優れた人物が多数いたことが細川氏の全盛期を築き上げたといえる。

[English Translation]