細川藤賢 (HOSOKAWA Fujikata)
細川 藤賢(ほそかわ ふじかた、永正14年(1517年) - 天正18年(1590年))は戦国時代 (日本)の武将。
家系は清和源氏の一家系である河内源氏の名門 足利氏の支流 細川氏。
細川典厩家一族。
父は細川尹賢。
兄は室町幕府最後の管領となった細川氏綱。
摂津国中島城城主。
仮名(通称)は四郎。
官位は右馬頭。
足利義輝に仕える。
義輝が松永久秀に殺害されると(永禄の変)、久秀に降伏。
その後足利義昭が織田信長に擁立されて将軍となると、義昭の下に付いた。
京に義昭の居城二条城を作る際は藤賢の屋敷にあった「藤戸石」という巨石が使われた。
この石を運ぶ作業の指揮は信長自らが行った。
1573年に義昭が信長への兵を挙げようとした際には、藤賢はこれを諌めた。
だが聞き入れられず、義昭は挙兵。
藤賢もこれに従う。
その後即座に織田軍に城を包囲され、降伏。
義昭は京より追放されたが、藤賢は信長に許されて、近江坂本城の守備を任された。