羽田矢国 (HATA no Yakuni)

羽田矢国(はたのやくに、生年不明 - 朱鳥元年(686年)3月25日没)は、日本の飛鳥時代の人物である。
名は八国とも書く。
旧仮名遣いでの読みは同じ。
姓(カバネ)は公、後に真人。
672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側に寝返り、琵琶湖北回りの軍を率いて三尾城を攻略した。
大弁官。
贈直大壱。

壬申の乱での活躍

壬申の乱が勃発したとき、羽田矢国は近江の朝廷の軍の将として、山部王、蘇我果安、巨勢比等(巨勢人)が率いた数万の軍の中にあった。
この軍は琵琶湖東岸を進んで美濃国の不破郡にある大海人皇子の本拠を攻撃しようとした。
しかし、7月2日頃に果安と比等が山部王を殺したため、混乱して止まった。
このとき、近江の将軍羽田公矢国とその子羽田大人らは己の族を率いて大海人皇子側に寝返った。
斧鉞を授かり、将軍となり、ただちに北越に行くよう命じられた。

矢国は琵琶湖東岸を北進して越国への入り口を押さえてから、西岸を南下したらしい。
7月22日、矢国は出雲狛とともに三尾城を攻め、これを降した。
この三尾は、現在の滋賀県高島市にある三尾里にあたると推定されている。
同じ日に味方の主力軍は瀬田で敵の最後の防衛線を破った。
翌23日に大友皇子(弘文天皇)が自殺し、乱は終わった。

功臣のその後

戦後、天武天皇元年(672年)12月4日に、壬申の乱での勲功者の冠位が進められ、小山の位以上が与えられた。
羽田矢国もそれ以上の位を授けられたと考えられる。

天武天皇12年(683年)12月13日に、伊勢王、羽田八国、多品治、中臣大島は、判官・録史・工匠といった部下を引き連れて全国を巡り、諸国の境界を定めた。
この事業は年内には終わらなかった。
八国の位はこのとき大錦下であった。

天武天皇13年(684年)に羽田氏は真人の姓を与えられた。

天武天皇15年、すなわち朱鳥元年(686年)の3月6日、大弁官直大参羽田真人八国が病気になったため、僧3人を得度させた。
八国は25日に死んだ。
直大壱の位が贈られた。

[English Translation]