脇坂安治 (WAKISAKA Yasuharu)
脇坂 安治(わきざか やすはる)は安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。
淡路国洲本藩主。
のち伊予国大洲藩初代藩主。
龍野藩脇坂家初代。
生涯
脇坂氏は近江国東浅井郡脇坂野に居住し、その土地の名から脇坂と称した。
天文23年(1554年)、脇坂安明の長男として、近江浅井郡脇坂庄で生まれる(異説として田付孫左衛門の実子とも伝わる)。
はじめ浅井長政に仕えたが、天正元年(1573年)の浅井氏滅亡以後は、織田家に属し、
明智光秀の与力として丹波国・黒井城攻めなどで功を立てる。
丹波の赤鬼といわれた敵将赤井直正から武勇を賞されて、貂の皮を拝領した。
後に、豊臣秀吉に自ら頼み込んで家臣となる。
その後は、播磨国・三木城、神吉城攻めなど、秀吉の諸戦に従軍して功を重ねた。
天正11年(1583年)、近江国賤ヶ岳の戦いで福島正則や加藤清正らと共に活躍し、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられ、その戦功により3000石を与えられた。
柴田勝政を討ち取った説がある。
小牧・長久手の合戦では伊勢・伊賀方面で滝川雄利の伊賀上野城を攻略するなどの手柄をあげ、天正13年(1585年)5月、秀吉より摂津国能勢郡に1万石を与えられた。
8月に大和国高取で2万石、10月には淡路洲本で3万石を与えられた。
その後は加藤嘉明や九鬼嘉隆らと共に水軍衆の指揮官を務め、九州征伐、小田原征伐や朝鮮出兵などに従軍。
戸次川の戦いでは島津軍の前に大敗しているが、小田原征伐では海上から伊豆下田城を攻め落としている。
文禄の役では1500人の動員を課せられ、当初は船手衆の1人として九州から釜山への海上輸送を担当するが後に陸戦兵力として投入された。
文禄元年(1592年)6月に漢城近郊の龍仁を守備中に全羅道観察使の李洸などが率いる朝鮮軍約5万の大軍により攻撃を受けるが、機を制して夜襲を行い朝鮮軍約5万を潰走させた。
龍仁戦闘の直後の翌7月には李舜臣による水軍の活動を抑えるために加藤嘉明、九鬼嘉隆と共に急遽連合水軍として編成されるが、功を逸って単独で抜け駆けした脇坂安治は閑山島海戦で李舜臣に大敗した。
以降は豊臣秀吉の戦術転換命令によって水陸防御作戦を実施して李舜臣の侵攻を何度も阻んだ。
文禄2年(1593年)5月の第二次晋州城攻防戦では攻城軍に加わって陸上兵力(点呼員数900人)としても活躍している。
慶長の役では水軍配置となり1200人の動員を課せられ、慶長2年(1597年)7月に侵攻してきた元均率いる朝鮮水軍を逆襲により壊滅させた。
また、加藤清正の救援などでも武功を挙げ、日本軍の侵攻作戦が始まると水軍として進撃するが、8月の南原城攻略作戦では陸上兵力として使用された。
全州会議に参加した後は再び水軍として引き続き朝鮮沿岸で活動した。
これら朝鮮における一連の功績から、3000石を加増されて3万3000石の大名となる。
秀吉の死後、徳川家康と前田利家が対立。
安治は徳川邸に駆けつけた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも家康に与するつもりであったが、安治が大坂に滞在していたときに石田三成が挙兵したため、やむなく約1000名の兵を率いて西軍に与する。
そして9月15日 (旧暦)の本戦で小早川秀秋が裏切ったのに便乗して寝返り、大谷吉継隊を壊滅させ、戦後、石田三成の居城・佐和山城攻略にも参加している。
しかし、戦前に通款を明らかにしていた為、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、戦後に徳川家康から所領を安堵された。
慶長14年(1609年)9月、伊予大洲藩に5万3500石に加増移封された。
慶長19年(1614年)からの大坂の役では徳川・豊臣のどちらにも参加しなかった。
元和 (日本)元年(1615年)に次男・安元に家督を譲って隠居する。
その後は大洲を去って京都に住み、剃髪して臨松院と号した。
寛永3年(1626年)8月6日に京都で死去。
享年73。
人物・逸話
賤ヶ岳の戦いの一人で、七本槍の中では最年長の武将である。
大坂の陣では中立を決め込むなど、まだ豊臣氏にわずかながらも恩義を感じていたとされる。
そのため江戸幕府から逆に警戒され、翌年に隠居して大洲を去るという行動を起こした。
中務少輔の時代に京都・伏見の淀川支流の島のような場所に下屋敷を構えた。
中務少輔を中国風に「中書」と呼んだことから、脇坂には「中書(ちゅうじょう)さま」という別名がつき、下屋敷のあった一帯を「中書島駅」と呼ぶようになったといわれる。