菅野真道 (SUGANO no Mamichi)
菅野真道(すがの の まみち、741年(天平13年) - 814年7月23日(弘仁5年6月29日 (旧暦)))は、平安時代初期の公卿。
百済国第14代の王である貴須王(近仇首王)の末裔、津山守の子。
カバネは津連(つのむらじ)のち菅野朝臣。
従三位・参議。
経歴
少内記に任じられ、外従五位下に叙せられる。
この間、近江国少目・同大掾・摂津国介と地方官を歴任した。
安殿親王(のち平城天皇)の立太子にあたって、東宮学士に任ぜられる。
連から朝臣への改姓を上表し、菅野朝臣の姓を下賜される。
桓武天皇の信任が厚く、東宮学士の傍ら弁官・兵衛府・近衛兵令制の五衛府と要職を歴任、また造宮省として平安京への遷都事業にも深く関与した。
805年には参議として公卿に列した。
806年には桓武天皇の前で藤原緒嗣といわゆる「徳政論争」を行い、農民の負担軽減のために軍事・造作を停止すべきとの緒嗣の主張に強く反対するが、天皇は緒嗣の主張を採択し、計画中であった蝦夷征伐と平安宮造宮の中止、造宮職の廃止と木工寮への統合が決まった。
806年平城天皇の即位に際して正四位上に昇叙、翌807年観察使制度の設立に伴い山陰道観察使、809年従三位・東海道観察使。
嵯峨天皇朝の811年致仕。
真道は藤原継縄・秋篠安人と『続日本紀』の編纂を行い797年に全40巻を完成させた。
また、未完成に終わったが、桓武天皇の命により藤原内麻呂とともに格式の編纂を進めていたとされる。