菊池武朝 (KIKUCHI Taketomo)

菊池 武朝(きくち たけとも、1363年(正平 (日本)18年/貞治2年) - 1407年(応永14年))は南北朝時代 (日本)から室町時代前期にかけての武将。
菊池氏の第17代当主。
第16代当主・菊池武政の子。
幼名加賀丸。
右京大夫、肥後守、肥後国守護代。

幼名は賀々丸。
1374年に父・武政が死去したため、その後を継いで当主となった。
しかし12歳の幼年であったため、一族の菊池武義や菊池武安らの補佐を受ける。
しかし祖父・菊池武光時代からの宿敵である今川貞世(了俊)の攻勢は止まる事を知らず、遂に武朝は高良山からも撤退を余儀なくされ、拠点の肥後に逃亡した。

1375年に水島の変で混乱していた今川軍を一時的に破ったこともあったが、その後は再び了俊の逆襲に晒されて連戦連敗、1381年には居城までも奪われてしまった。

1392年、南北朝が足利義満によって統一されると、武朝は了俊と和睦して肥後へと戻った。
しかしその後も幕府に対して反抗的な態度を取り続けた為、義満の命令を受けた、阿蘇惟村等の諸大名から攻撃を受け、結果として菊池氏は衰退の一途をたどることとなる。

1407年、45歳で死去し、後を子の菊池兼朝が継いだ。

[English Translation]