蒲生氏郷 (GAMO Ujisato)
蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代 (日本)から安土桃山時代にかけての武将。
初め近江国日野城主、次に伊勢国松阪城主、最後に陸奥国黒川城主。
近江国日野城主蒲生賢秀の嫡男。
初名は賦秀(ますひで)または教秀(のりひで)。
またキリシタン大名で洗礼名はレオン(或いはレオ)。
子に蒲生秀行 (侍従)。
このほか長男蒲生氏俊がいるが、廃嫡したとされる。
幼少時
蒲生氏は奥州藤原氏・藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。
近江蒲生郡日野に生まれ、幼名は鶴千代と名付けられた。
1568年、主家の六角氏が織田信長によって滅ぼされたため、父・賢秀は織田氏に臣従した。
このとき、人質として岐阜市の信長のもとに送られた。
織田家臣時代
信長は氏郷の才を見抜いたとされ、娘の冬姫と結婚させた。
岐阜城で元服して忠三郎賦秀と名乗り(信長の官職である「弾正忠(だんじょうちゅう)」から1字を与えられたとの説がある。
なお、本項では一部を除いて氏郷に統一する)、織田氏の一門として手厚く迎えられた。
武勇にも優れ、1568年の北畠具教・北畠具房との戦いにて初陣を飾ると、1569年の伊勢国大河内城攻めや1570年の姉川の戦い、1573年の朝倉攻めと小谷城攻め、1574年の伊勢長島攻め、1575年の長篠の戦いなどに従軍して、武功を挙げている。
1582年、信長が本能寺の変により横死すると、安土城にいた信長の妻子を保護し、父とともに居城・日野城(中野城)へ走って明智光秀に対して対抗姿勢を示した。
光秀は明智光春、武田元明、京極高次らに近江の長浜城 (近江国)、佐和山城、安土城の各城を攻略させ、次に日野攻囲に移る手筈だったが、直前に敗死した。
豊臣家臣時代
その後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。
秀吉は氏郷に伊勢松ヶ島城12万石を与えた。
清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ秀吉に従い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の紀伊国攻め、天正15年(1587年)の九州征伐や1590年の小田原征伐などに従軍する。
その間、天正16年(1588年)には飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で新城建築のための縄張りを行い、松坂城を築城。
松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて城下町を作り上げた。
一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥国会津に移封され42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられた。
なお、松ヶ島時代(天正13年(1585年)頃)に賦秀から氏郷と名乗りを改めているが、これは当時の実力者だった羽柴"秀"吉の名乗りの一字を下に置く『賦秀』という名が不遜であろうという気配りからであった。
一方、天正15年(1587年)7月には、秀吉から「羽柴」の姓を賜っている。
会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、甲州流の縄張りによる城作りを行った。
なお、「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町 (滋賀県)村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。
7層の天守閣(現存する5層の復元天守は寛永年間に改築されたものを元にしている)を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ鶴ヶ城と名付けられた。
また、築城と同時に城下町の開発も実施した。
具体的には、旧領の日野・松阪の商人の招聘、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。
以降は、会津の旧領主である伊達政宗と度々対立しながらも、1591年の大崎・葛西一揆(なお、この際秀吉に対し「政宗が一揆を扇動している」との告発を行っている)、九戸政実の乱を制圧。
翌1592年の文禄・慶長の役では、肥前国名護屋へと出陣している。
この陣中にて体調を崩し、文禄4年(1595年)2月7日、京都の伏見蒲生屋敷において死去。
享年40。
蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮市に移され12万石に減封された(会津には上杉景勝が入った)。
人物・逸話
家臣を大切にし、また茶湯にも興味を示して利休七哲の一人(筆頭)にまで数えられており(千利休の死後、その子息千少庵は氏郷の許で蟄居している)、諸大名からの人望が厚く、風流の利発人と評される。
また和歌にも秀でており、会津から文禄の役に参陣途上、近江国武佐にて故郷日野を偲んで詠んだ歌「思ひきや人の行方ぞ定めなき我が故郷をよそに見んとは」が有名。
またキリシタン大名でもある。
武辺談義や怪談など、話好きであったといわれる。
奇癖として有功の家臣に蒲生姓を乱発し、家中に稀少なるべき同名衆を大量生産することがあり、前田利家にたしなめられている。
蒲生家中に蒲生姓の家臣が多いのはこのことによる(蒲生頼郷・蒲生郷舎など)。
また、高山右近とも親交があったためにキリシタンとなり、レオンという洗礼名を持っていた。
ローマにも度々使いを送り、時のローマ教皇から感謝の手紙を受けている。
このほか、台湾に出兵したという逸話もある。
松坂時代、日野から多くの商人や職人を引き連れて松坂の街づくりを推進したが、会津転封により完成を見届けることは出来ず、あとに入ってきた服部一忠、古田重勝に引き継がれた。
会津でも日野や松坂から多くの商人や職人を連れ、会津塗などの発展に力を尽くした。
なお、三越の創始者である三井高利の三井家は、日野から松阪に移った際呼び寄せられた商家の一つであり、氏郷会津移封の際に誘いを断って松阪に残った家である。
ただし、三井家自体は日野出身ではない。
『常山紀談』には、陸奥92万石を与えられたとき、氏郷は「たとえ大領であっても、奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることなどできぬ。
小身であっても、都に近ければこそ天下をうかがうことができるのだ」と激しく嘆いたと言われる。
戦国時代三大美少年のひとり名古屋山三郎を小姓として寵愛したことも、よく知られている。
奥州転封後に、旧領主の伊達政宗から16歳という若い刺客を送られた。
だが関所で伊達家との通信文が見つかりこの刺客は牢に繋がれたが、「伊達に対する忠義、天晴れなり」と刺客を解放したとの逸話が残る。
織田信長は人質としてやってきた氏郷を見て一目でその実力と才能を見抜き、娘の冬姫を与えることを約束したという。
氏郷記では「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。
我婿にせん」と述べたという記述がある。
急死に関して
秀吉やその側近・石田三成、あるいは伊達政宗、直江兼続などによる毒殺説もあるが、下記の理由によりほぼ否定されている。
氏郷を診断した医師・曲直瀬玄朔が残したカルテ「医学天正記」には文禄の役の主兵の途中、既に名護屋城で発病し黄疸、目下にも浮腫などの症状が出たと記されている。
その他の玄朔の診断内容から、氏郷は今でいう直腸癌または膵臓癌だったと推測されている。
辞世の句
限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風
祇園南海、幸田露伴の著作にこの句の評釈がある。
また、山田風太郎は『人間臨終図鑑』の中で、「この句は戦国武将の絶唱としては白眉である」と評している。
墓所
京都市北区 (京都市)の大徳寺黄梅院、福島県会津若松市の興徳院(遺髪)。
近年、黄梅院にある墓を発掘したところ、刀を抱いた形で埋葬されていたことが判明。