藤原仲麻呂 (FUJIWARA no Nakamaro)
藤原 仲麻呂(ふじわら の なかまろ、慶雲3年(706年) - 天平宝字8年9月18日 (旧暦)(764年10月21日))は、奈良時代の公卿。
父は藤原武智麻呂。
恵美押勝(えみのおしかつ、藤原恵美朝臣押勝)とも呼ばれる。
『公卿補任』、『尊卑分脈』には"仲麿"または"仲丸"と記載されている。
概要
聖武天皇の時代
「続日本紀」は仲麻呂を「率性聡敏にして、略書記にわたる」と評している。
年少にして大納言・安倍宿奈麻呂に算術を学び、すぐれた学才を示した。
大学少允に最初に任官し、天平6年(734年)、従五位下に進む。
天平9年(737年)、天然痘の流行により父の武智麻呂を含む藤原四兄弟が相次いで死去し、藤原氏の勢力は大きく後退した。
代わって橘諸兄が台頭して国政を担うようになった。
天平13年(741年)、民部省。
天平15年(743年)、参議となる。
天平18年(746年)、式部省に転じる。
仲麻呂は叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、また皇太子孝謙天皇ともこの時は良好な関係にあったとされる。
天平16年1月13日 (旧暦)(744年3月1日)の安積親王の恭仁京での急死は、仲麻呂による毒殺説があるが疑問も出されている。
孝謙天皇の時代
天平勝宝元年(749年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位(孝謙天皇)すると、仲麻呂は大納言に昇進。
次いで、光明皇后のために設けられた紫微中台の令(長官)を兼ねた。
仲麻呂は更に中務省と五衛府も兼ねた。
光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に政権と軍権の両方を掌握した仲麻呂は、左大臣橘諸兄と権勢を競うようになった。
天平勝宝7歳(755年)、諸兄が朝廷を誹謗したとの密告があり、諸兄は恥じて官を辞職し、2年後に失意のうちに死去した。
天平勝宝8歳(756年)、聖武太上天皇が崩御し、遺言により道祖王が皇太子された。
だが天平宝字元年(757年)3月、道祖王は喪中の不徳な行動が問題視されて廃太子された。
代わって、仲麻呂の早世した長男藤原真従の未亡人(粟田諸姉)を妃とする淳仁天皇が立太子される。
5月、祖父の藤原不比等が着手した養老律令を施行。
同月、仲麻呂は紫微内相(大臣に准じる)に進む。
仲麻呂の台頭に不満を持ったのが橘諸兄の子の橘奈良麻呂であった。
奈良麻呂は、大伴古麻呂らとともに仲麻呂を殺害し、黄文王らを擁立するなどの反乱を企てるが、同年6月、上道斐太都らの密告により露見。
奈良麻呂の一味は捕らえられ、443人が処罰される大事件となった。
奈良麻呂、道祖王、大伴古麻呂らは拷問で獄死、事件に関与したとして仲麻呂の兄の右大臣藤原豊成も左遷された。
淳仁天皇の時代
天平宝字2年(758年)、孝謙天皇が譲位して大炊王が即位(淳仁天皇)した。
淳仁天皇を擁立した仲麻呂は独自な政治を行うようになり、中男・正丁の年齢繰上げや雑徭の半減、問民苦使・平準署の創設など徳治政策を進めるとともに、官名を唐風に改称させるなど唐風政策を推進した(太政官→乾政官、太政大臣→大師など。
官職の唐風改称を参照)。
仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、同年8月25日 (旧暦)(10月5日)、恵美押勝の名を与えられる。
同年、唐で安史の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。
天平宝字3年(759年)、新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。
軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられた。
この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる。
天平宝字4年(760年)、仲麻呂は皇族以外で初めて太師(太政大臣)に任ぜられる。
同年、光明皇太后が逝去した。
皇太后の信任厚かった仲麻呂にとっては大きな打撃となる。
天平宝字5年(761年)、淳仁天皇と孝謙上皇を近江国の保良宮に行幸させる。
唐の制度にならって保良宮を「北宮」、難波宮を「西宮」とする。
天平宝字6年(762年)、仲麻呂は3人の息子の藤原真先、藤原訓儒麻呂、藤原朝狩を参議につけた。
この頃、病になった孝謙上皇を看病した道鏡が上皇に寵愛されはじめた。
仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせた。
これが孝謙上皇を激怒させ、上皇は出家して尼になるとともに天皇から大事・賞罰の大権を奪うことを宣言した。
しかし、この実現については研究者のあいだでも理解が分かれる。
孝謙上皇の道鏡への寵愛は更に深まり、天平宝字7年(763年)、少僧都とした。
藤原仲麻呂の乱
孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり、危機感を抱いた仲麻呂は天平宝字8年(764年)、都督に任じ、さらなる軍事力の掌握を企てた。
しかし、謀反との密告もあり、淳仁天皇の保持する御璽・駅鈴を奪われるなど孝謙上皇に先手を打たれて、仲麻呂は平城京を脱出する。
子の藤原辛加知が国司の越前国に入り再起を図るが官軍に阻まれて失敗。
仲麻呂は近江国高島郡の三尾で最後の抵抗をするが官軍に攻められて敗北する。
敗れた仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟をだして逃れようとするが官兵石村石楯に捕らえられて斬首された。
仲麻呂の一族はことごとく殺されたが、六男・藤原刷雄は死刑を免れて隠岐国に流されて、桓武天皇の時代に大学頭・陰陽頭を歴任している。
また、十一男と伝わる徳一も処刑されず東大寺に預けられて出家し、筑波山知足院中禅寺の開山者となる。
また、仲麻呂の推進してきた政策のうち官名の唐風改称こそは廃されて元に戻されたものの、養老律令をはじめ多くの政策が一部修正を加えられながらも、その後の政権によって継続されている。