藤原俊信 (FUJIWARA no Toshinobu)
藤原 俊信(ふじわら の としのぶ、天喜3年(1055年) - 長治2年2月1日 (旧暦)(1105年2月17日)は、平安時代後期の貴族・学者。
日野流右大弁藤原正家の次男。
初名は家通。
正五位・弁官。
永保年間に侍従を務め、それらの功労で寛保5年(1091年)に従五位上を授けられる。
その後、大内記を経て永長2年(1097年)に正五位下に叙される。
翌年衛門府に任ぜられる。
康和元年(1099年)に俊信の従者が罪人を仲間に奪われるという事件が発生している(『後二条師通記』)。
だが、その年に右少弁の兼務が命ぜられ、翌年には更に文章博士を兼ねた。
康和5年(1103年)には立太子を受けて東宮学士をも兼ねる(ただし、東宮宗仁親王は生後7ヶ月)。
翌年の改元に際しては菅原在良とともに紀伝勘文を提出し、その勘案に基づいて「長治」が採用された。
(なお、その前の「康和」は式部大輔であった父・正家の勘案によるものであった)
だが長治2年(1105年)、父に先立って病没した。
藤原師実・藤原師通父子から作文会の講師を命ぜられた。
さらに藤原忠実が藤氏長者になって最初の法成寺参詣に随行した。
摂関家家司ではなかったものの、その信任が厚かったことを示している。