藤原信隆 (FUJIWARA no Nobutaka)
藤原 信隆(ふじわら の のぶたか、大治元年(1126年) - 治承3年11月17日 (旧暦)(1179年12月17日))は平安時代後期の公卿。
藤原北家藤原道隆流、右京大夫藤原信輔の子。
母は橘家光の娘。
室は持明院通基の娘、及び平清盛の娘。
子に坊門信清、坊門隆清、藤原殖子(七条院)らがある。
従三位、修理大夫、伊予国守、因幡国守。
七条修理大夫と号す。
坊門家の祖であり、坊門信隆とも記される。
後白河上皇の近臣である一方、平清盛の娘を妻とした関係で、親平家派の廷臣としても活動する。
応保元年(1162年)には、平教盛、平時忠らとともにある陰謀に加わったかどで、因幡守、右馬頭を解官される憂き目に逢っている。
その陰謀とは、二条天皇を廃して憲仁親王(後の高倉天皇・生母は時忠の妹平滋子)を擁立する、との内容であった。
赦免されて後は平氏政権の興隆とともに栄達し、仁安 (日本)(1168年)に従三位に進んだ。
娘の殖子は高倉天皇の寵愛を受け、守貞親王・尊成親王の二皇子の生母となった。
治承3年(1179年)、54歳にして死去。
寿永2年(1183年)、尊成親王が後鳥羽天皇として即位した後、その外祖父として従一位・左大臣を追贈されている。