藤原宗輔 (FUJIWARA no Munesuke)

藤原 宗輔(ふじわら の むねすけ、承暦元年(1077年)-応保2年1月30日 (旧暦)(1162年2月15日))は、平安時代後期の公卿(従一位太政大臣)。
父は権大納言藤原宗俊、母は源俊房の女。
兄に右大臣藤原宗忠(「中右記」著者)がいる。
通称・京極太政大臣。
『今鏡』に登場する「蜂飼大臣」の異名でよく知られている。
藤原俊通の父。

宗輔は漢籍や有職故実に通じた真面目な人物であったが、のんびりとしていてそそっかしい人物であったと伝えられている。
1096年に父が52歳の若さで死去した際には、まだ五位蔵人という低い官職であり、側近として仕えまた笛を通じた友人でもあった堀河天皇が早世するなどの不幸もあり、46歳でやっと参議に列するような有様であった。
1129年の除目では、宗輔が源師頼の任官された職務を誤って書き写した公文書を作成してしまい、除目のやり直しが行われた事が伝えられている(ちなみに師頼は宗輔の母方の伯父にあたる)。

そのような状況の中で、宗輔は真面目に職務をこなしつつも趣味の世界に没頭していく。
音楽においては、笛や筝などに秀でており、当人も「死ぬのは怖くないが、笛が吹けなくなるのが困る」と語ったと伝えられる。
また、娘・若御前も父に勝るとも劣らない才能を持ち(「若御前」とは、鳥羽法皇が彼女の曲を聞くために男装をさせて院の御所に上げさせた事に由来していると言う)、後に当代随一の音楽家として名を残した藤原師長(藤原頼長の子、後の太政大臣)の筝もこの親子から習ったものであると伝えられている。

もう一つの趣味は自然への親しみであった。
当時の貴族社会では貴族が自ら草花を育てる事は考えられなかったが、宗輔は自ら菊や牡丹を育てて、藤原頼長や鳥羽法皇ら親しい人々に献上している。
何よりも人々を驚かせたのは蜂を飼いならしていたと言う話である。
当時の日本にも養蜂は伝わっていたとはいえ、貴族で蜂を飼っていたというのは先にも後にも宗輔のみである。
『古事談』ではそれを「無益な事」と人々から嘲笑されていたが、宮廷に蜂が大発生した際に宗輔だけが冷静に蜂の好物である枇杷を差し出したところ、蜂はその蜜を吸って大人しくなったと伝えている。
『十訓抄』では飼っている蜂の一匹一匹に名前を付けては自由に飼い慣らして、気に入らない人間を蜂に命じて刺させたと伝えられている。
これら全てが実話ではないとしても、彼の自然に対する関心と知識の深さが並大抵のものでなかった事が想像される。

そんな宗輔が権中納言であった56歳の時に一つの出会いをする。
わずか13歳で権中納言に達した関白・藤原忠実の子・頼長との出会いであった。
43歳と親子以上の年齢差があった二人であったが、才気に溢れて敵が多かった頼長に対して、宗輔は人生の先輩として接し、頼長も宗輔に対して敬意を払うようになっていった。
それは頼長が大臣に昇進した後も続き、頼長はしばしば宗輔と政治的な相談をしたり、息子・師長への音楽の教授を依頼するなどの繋がりを深めた。
頼長は宗輔は高齢になってもなお職務を忠実にこなしている模範となる人物であり、大臣に昇進させないのはおかしい事であると鳥羽法皇らに度々奏上したと伝えられている。
だが、皮肉にも宗輔の大臣昇進という頼長の希望は保元の乱で左大臣であった頼長が討ち死にした事で初めて実現される事になった。

1156年、保元の乱によって頼長が討たれると、頼長側近の貴族たちは宮廷から追放された。
だが、その筆頭であった筈の大納言宗輔には何の処分も下らなかった。
既にこの時宗輔は80歳の高齢であり、このような老人が反乱の企てに参加出来る訳が無いと、後白河天皇らから思われたからだと言われている。
その数ヵ月後、頼長死亡による人事異動によって右大臣に任命されたのである(これは平安時代を通じて大臣初任の最高齢記録である)。
そして翌年には遂に最高位である太政大臣へと昇進したのである。

宗輔の太政大臣時代には後白河上皇と二条天皇の確執、院政間の対立など事態は激動し、やがて平治の乱が発生する。
それでも宗輔は様々な趣味で培った丈夫な体を駆使(『今鏡』や『山槐記』などによれば、晩年に至るまで健脚ぶりを見せていたと言われている)して難局を乗り切って84歳で引退するまで、長い政治生活を送ることになるのである。

『堤中納言物語』に登場する「虫愛づる姫君」のモデルは宗輔・若御前父娘であったと言われている。

[English Translation]