藤原実政 (FUJIWARA no Sanemasa)

藤原 実政(ふじわら の さねまさ、寛仁3年(1019年) - 寛治7年2月18日 (旧暦)(1093年3月23日))は平安時代中期の貴族。
従三位藤原資業の子。
従二位・参議。

経歴

藤原北家日野流(藤原真夏流)、日野三位藤原資業の三男として生まれる。
文章博士であった父と同様に学問の道を歩み、長暦元年(1038年)文章得業生となる。
次いで対策に及第し、長久2年(1041年)に六位蔵人となる。
長久3年(1042年)には後朱雀天皇の第二皇子尊仁親王(後の後三条天皇)読書始で尚復(侍読が読んだ内容を復唱する役割)を勤めた(『今鏡』)。
永承5年(1050年)に東宮尊仁親王の東宮学士となり、敦成親王(後一条天皇)の侍読を勤めた父資業に続いて、親子二代で侍読となった。

東宮学士実政に対する尊仁親王の信頼は厚く、天喜元年(1053年)、東宮御息所・藤原茂子 が第一皇子・貞仁親王を生んだ際には、実政の姉妹(藤原惟経の妻)が乳母の一人となっている。
また、康平7年(1064年)に実政が甲斐国国司に任じられ任国に下向する際、尊仁親王から、任国に行っても平安京のことひいては私のことを忘れないで欲しい、との趣旨の御製が贈られた(『今鏡』『十訓抄』等)。

治暦4年(1068年)、尊仁親王が後三条天皇として即位したことに伴い、実政は前東宮学士の労により正四位に昇進した。
翌、治暦5年(1069年)には、同じく尊仁親王の学士であった大江匡房とともに新東宮貞仁親王(後の白河天皇)の学士に任じられ、尊仁・貞仁と二代続けて東宮学士を勤めることとなる。

後三条天皇が即位してからも、その信頼は変わらず、延久4年12月(1073年)には弁官へ抜擢された。
この人事について、本来なら権左中弁の藤原隆方を任命すべき所であった。
しかしながら、以前木津の渡しで隆方が実政に対して、なかなか天皇になれない皇太子(尊仁親王)に当てこすった悪口を言ったことがある。
それを覚えていた後三条天皇は隆方を越えて敢えて実政を左中弁に任じたとされる(『今鏡』)。
実政が左中弁となった直後、後三条天皇は貞仁親王(白河天皇)に譲位し院庁を開くと実政は院司となるが、まもなく後三条院は崩御した。

次代の白河天皇も恩師である実政を厚遇し、承保4年(1077年)に蔵人頭、承暦4年(1080年)には参議・従三位と順調に昇進する。

永保4年(1084年)実政は太宰大弐となり、大宰府へ下向する。
太宰府では九州最大の荘園領主であった宇佐八幡宮との間に紛争が発生したらしい。
寛治元年(1087年)、宇佐八幡宮の神人から白河院御所に対して、実政が正八幡宮神輿を射て毀損したとの訴えがあり、翌寛治2年(1088年)に実政は太宰大弐を辞して上洛した。
結局同年11月に実政は伊豆国への流罪と決定、併せて息子藤原敦宗も連座し左少弁を解官された。
その後実政は配流途中の近江国で出家したが許されず、寛治7年(1093年)伊豆国の配所で没した。

官位・官職

長暦元年(1038年) 文章得業生

長暦2年(1039年) 美作国国司

長久2年(1041年) 蔵人

長久4年(1043年) 式部省

長久5年(1044年) 従五位、宮内省

永承5年(1050年) 大内記、従五位上、東宮学士

永承7年(1052年) 美濃国権介

天喜4年(1056年) 正五位

天喜6年(1058年) 加賀国権守

康平4年(1061年) 従四位

康平7年(1064年) 甲斐国守

治暦3年(1067年) 従四位上

治暦4年(1068年) 止東宮学士(尊仁親王踐祚による)、正四位

治暦5年(1069年) 備中国守、文章博士、東宮学士

延久4年(1072年) 近江国守、弁官

延久5年(1073年) 正四位上

承保2年(1075年) 修理左宮城使、右大弁

承保4年(1077年) 蔵人頭

承暦元年(1078年) 京職

承暦2年(1078年) 但馬国権守、辞文章博士

承暦4年(1080年) 参議、左大弁、従三位

承暦5年(1081年) 勘解由使

永保2年(1082年) 正三位、讃岐国守、罷右京大夫

永保4年(1084年) 太宰府

応徳2年(1086年) 従二位

[English Translation]