藤原家通 (権中納言) (FUJIWARA no Iemichi (Gon Chunagon (a provisional vice-councilor of state)))

藤原 家通(ふじわら の いえみち、康治2年(1143年) - 文治3年11月1日 (旧暦)(1187年12月2日))は、平安時代後期の公卿。
初名は基重。
中納言藤原忠基の子。
母が家女房として仕えていた大納言藤原重通・源師頼娘夫妻の養子となる。
六角小路に邸宅があったことから「六角」と号する。

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保元元年(1156年)に左兵衛佐兼左近衛少将となり、翌年正五位下に進む。
保元4年(1159年)に従四位下に進む。
永暦元年(1160年)に従四位上右近衛中将となる。
応保3年(1163年)に正四位下に進んだ。
長寛2年(1164年)に二条天皇の蔵人頭を兼ねて頭中将となり、六条天皇の即位後も留任した。
仁安 (日本)元年(1166年)に参議に任じられ、2年後に従三位に進む。
承安 (日本)2年(1172年)に正三位に進む。
治承三年の政変後に藤原光能に替わって右兵衛督を兼ね、寿永元年(1181年)に従二位に進み左兵衛督に転じる。
翌年権中納言兼右衛門督に任じられる。
元暦元年(1184年)に正二位に進み、文治2年(1186年)に左衛門督を兼ねる。
翌年、権中納言兼左衛門督を退き、間もなく死去した。

笛や和歌にも秀で、『千載和歌集』と『新古今和歌集』にそれぞれ2首採録されている。
また、『角金記』と呼ばれる日記(通称の「六角金吾(衛門督)」に由来)があったとされるが、現存していない。

[English Translation]