藤原弘経 (FUJIWARA no Hirotsune)
藤原 弘経(ふじわら の ひろつね、承和 (日本)5年(838年) - 元慶7年1月4日 (旧暦)(883年2月14日))は、平安時代前期の官人。
藤原北家出身で、藤原長良の五男。
母は藤原乙春。
藤原基経・藤原高子らの同母弟。
異母兄に藤原国経、藤原遠経がいる。
子に宜春(従五位下右京亮)・近相(従五位上治部大輔)・藤原輔相(無官)がいた。
貞観 (日本)3年(861年)、讃岐国権掾に任ぜられる。
同6年(864年)春、従五位下に叙せられ、夏には讃岐権国司に昇進する。
同8年(866年)には侍従に任ぜられる。
同15年(873年)には、讃岐権介に再任された。
同17年(875年)には衛門府佐に任ぜられる。
元慶元年(877年)、陽成天皇践祚により、従五位上を授かる。
同3年(879年)には正五位下加賀国権守に任ぜられる。
同6年(882年)ごろから病に伏せる。
陽成天皇の母方の伯父にあたる事から、病床にかかわらず、同年12月31日に従四位下に叙された。
翌7年(883年)正月には越前国権守に任ぜられるが、同年同月4日に卒去した。
『日本三代実録』によると、言語障害があったという。