藤原忠清 (FUJIWARA no Tadakiyo)

藤原 忠清(ふじわら の ただきよ、生年不詳 - 文治元年(1185年))は平安時代末期の武将。
初名は忠景。
通称は伊藤五、伊藤忠清、上総介忠清。
父は景綱。
兄弟に景家・忠直。
子に藤原忠綱・忠光・光景・平景清がいる。

生涯

伊勢国度会郡の古市荘を基盤とする藤原秀郷流伊藤氏の出身で、平家譜代の有力家人である。
保元の乱で平清盛の軍の先陣を務め、源為朝と戦う。
この時、為朝の強弓を前に苦戦を強いられ、弟の忠直(伊藤六)が戦死する。
平治の乱の直後には清盛の命で、二条天皇側近の藤原経宗・藤原惟方を逮捕している(『愚管抄』)。

左兵衛尉を経て、嘉応2年(1170年)に右衛門少尉となる。
忠清は平氏一門の中でも特に平重盛に近仕していて、平維盛の乳父(めのと)の立場にあった。
その後、何らかの理由で上総国に配流された忠清は、現地の有力在庁官人・上総介広常の歓待を受ける。
広常の態度は「志ヲ尽シ思ヲ運テ賞玩シ愛養スル事甚シ」かったという(『源平盛衰記』)。

治承三年の政変(1179年)で忠清は、解官された藤原為保に代わり上総介となり、従五位下に叙せられた。
その際に、「坂東八カ国の侍の別当」(『平家物語』)として東国の武士団を統率する権限も与えられたらしい。
後年、和田義盛は源頼朝に恩賞としてその職を望み、鎌倉政権の侍所別当に補任された。
上総の国衙を掌握した忠清は、広常に対して恩を忘れた強圧的な態度に転じ、陳弁のため上洛した広常の子・能常を拘禁する。
忠清の圧迫に怒った広常は、やがて平氏に反旗を翻すことになる。

治承・寿永の乱
治承4年(1180年)5月の以仁王の挙兵では、弟・景家や嫡子・忠綱とともに以仁王を追撃する。
宇治川では馬筏(いかだ)を組んで渡河を決行、源頼政らを討ち取った。
以仁王の生死は不明で奈良に逃げ込んだという情報も流れたことから、平重衡・維盛は南都に攻め込もうとするが、忠清は「晩に臨みて南都に着くの条、思慮あるべし、若き人々は軍陣の子細を知らず」(『山槐記』)と制止した。

忠清は伊豆の流人・頼朝の動向について、大庭景親から報告を受けて神経をとがらせていた。
9月に頼朝の挙兵で東国が動乱状態になり、東海道諸国に頼朝追討の宣旨が下された。
22日、追討使として維盛が軍を率いて福原を進発すると、忠清は侍大将として付き従った。
10月18日、追討軍は駿河国に達して富士川で反乱軍と対峙するが、数万の敵兵に対して官軍はわずか千騎という有様で、忠清は形勢不利と判断して維盛に撤退を進言する。
忠清は「次第の理を立て、再三教訓」して、撤退を渋る維盛を説得したという(『玉葉』)。

寿永2年(1183年)7月の平氏の都落ちには出家して同行せず、畿内にとどまって源義仲との和睦を図るなど独自の動きを見せる(『玉葉』)。
一ノ谷の戦いが終結した後の元暦元年(1184年)7月、忠清は平家継とともに平氏の本拠地の伊賀国・伊勢国で大規模な反乱(三日平氏の乱 (平安時代))を起こした。
東国軍の主力はすでに源範頼に率いられて鎌倉に帰還していたため、京都の防備は手薄になっていた。
このころ鎌倉から伊賀に大内惟義、伊勢に山内首藤経俊が代官として配置され、平氏や義仲の残党狩りが行われていた。
反乱の背景には、鎌倉方の強権支配にたいする反発があったと推測される。

鎌倉方の佐々木秀義が戦死するなどの激戦が展開された後、反乱は鎮圧される。
家継は戦死するが、忠清は逃亡し潜伏を続ける。
翌年、源義経が屋島に出撃する時に、後白河法皇は忠清の脅威を懸念して制止しようとするなど、その存在は侮れないものだった。
平氏一門が壇ノ浦の戦いで滅亡した後の5月、忠清は志摩国麻生浦で加藤光員の郎等に捕らえられ、16日六条河原で処刑された(『吾妻鏡』)。

[English Translation]