藤原惺窩 (FUJIWARA Seika)
藤原 惺窩(ふじわら せいか、永禄4年1月24日 (旧暦)(1561年2月8日) - 元和 (日本)5年9月12日 (旧暦)(1619年10月19日))は、戦国時代 (日本)から江戸時代前期にかけての儒学者。
父は歌道で有名な公家の冷泉家の冷泉為純。
別名は冷泉 粛。
字は歛夫(れんぷ)。
別号は北肉山人・柴立子・広胖窩。
生れは、下冷泉家の所領であった播磨国三木郡(美嚢郡)細川庄(現兵庫県三木市)。
下冷泉家の子として生まれた。
しかしながら、長男ではなかったため上京し、京都相国寺に入って禅僧となり朱子学を学んだ。
中国で儒学を学ぼうと明に渡ることを企てるが失敗に終わった。
その後朝鮮儒者姜沆(きょうこう)との交流を経て、<下セル参照>を体系化して京学派として独立させた。
それまで儒学は五山僧の間での教養の一部であった。
朱子学を基調とするが、陽明学も受容するなど包摂力の大きさが特徴である。
門弟のなかでも特に林羅山・那波活所・松永尺五・堀杏庵の4人は著名である。
惺門四天王と称された。
和歌や日本の古典にも通じていた。
豊臣秀吉・徳川家康にも儒学を講じた。
家康には仕官することを要請されたが辞退し、門弟の一人林羅山を推挙した。
実家の下冷泉家の父と兄が播磨国において戦国大名の別所氏に攻められ没落したため、弟を新たな当主に擁立し、下冷泉家の再興に尽力した。
自身は下冷泉家の当主の座には就かなかったが、息子の為景は、当主となった。