藤原成範 (FUJIWARA no Shigenori)
藤原 成範(ふじわら の しげのり、保延元年(1135年) - 文治3年3月16日 (旧暦)(1187年4月26日))は平安時代末期の公卿。
信西こと藤原通憲の子。
母は紀伊局こと藤原朝子。
正二位、民部省、中納言。
初名は成憲。
保元の乱を経て父の信西が権勢を握るとともに昇進し、遠江国、播磨国の国司などを経て近衛府となる。
平清盛の娘と婚約し、その前途は磐石であるかに見えたが、平治元年(1159年)の平治の乱において父信西が殺害されると状況は暗転。
戦後、戦乱を招いた一方の当事者として信西の罪状が問われることになり、それに連座する形で子息達は悉く流罪となり、成憲も下野国に流された。
これを機に、諱を成範と改めたとされる。
永暦元年(1160年)には赦免され、承安 (日本)4年(1174年)には参議、寿永2年(1183年)には中納言と昇進。
この間、後白河天皇の側近として仕え、治承三年の政変で法皇が鳥羽殿に幽閉された際にも、兄弟の藤原脩範・静賢らとともにその傍に出入りすることを許された。
文治元年(1185年)に源義経が兄源頼朝から離反した際には、義経と同心している嫌疑をかけられたこともあった。
が、概して政治的な足跡には乏しく、専ら和歌などの文化面での活動が目立った。
『千載集』『新古今集』にその作が入選しており、また『唐物語』の作者である可能性も高いとされる。
桜を愛し、自邸に多く植えたことにより、「桜町中納言」の名で呼ばれたともいう。
高倉天皇の寵愛を受け、範子内親王(坊門院)を産んだ小督は、成範の娘である。