藤原正光 (FUJIWARA no Masamitsu)

藤原 正光(ふじわら の まさみつ、天暦11年(957年) - 長和3年2月29日 (旧暦)(1013年4月1日))は、平安時代中期の公卿。
父は関白藤原兼通。
極官は従三位・参議大蔵卿。

生涯
兼通の六男として、藤原有年の娘を母として生まれる。
祖父の藤原師輔は当時右大臣であり、朝廷の実力者でもあった
が、上席には兄の藤原実頼が左大臣として健在であり、また兼通も二男でありこの時点で公卿にもなっておらず、正光の将来は不透明であった。
さらに、師輔は天徳 (日本)4年(960年)には右大臣のまま亡くなってしまう。

ところが、安和元年(968年)に摂政となっていた実頼が死去するとともに兼通の兄藤原伊尹が代わって摂政となり、さらに安和2年(969年)に円融天皇が即位する。
と、これらによる大規模な人事異動の中で、正光は新天皇の皇太子時代の小舎人であったことも幸いし、13歳にして殿上人を許される。
また翌天禄元年(970年)には、従五位下近江少掾となり、兼通の遅くの子であったため、その昇進の余慶を受けて官途の始まりは順調だった。

兼通は天禄3年(973年)には、参議任官から4年で、伊尹の死をうけて関白に就任するという、異例の人事となる。
このため、正光も侍従、ついで左近衛少将に任じられ近江介を兼ねた。
さらに、5年で3度の昇叙の結果、位階も従四位下に昇った。
しかし、貞元 (日本)2年(977年)に、関白任官後わずか5年で兼通が死去すると、以後の昇進は滞ることとなった。

この間、正光は兼通の弟で、兄弟仲の悪かった藤原兼家に接近したらしい。
永観2年(984年)に兼家の孫懐仁親王が東宮(皇太子)となると東宮昇殿を許されている。
さらに寛和2年(986年)にその東宮が一条天皇として即位して、母藤原詮子が皇太后となると、皇太后宮権亮に就任し、兼家の近臣として認められている様子がうかがえる。
同じ年、10年ぶりの昇叙によって従四位上となっているのも、この関係によるものと思われる。
この皇太后宮権亮は、5年後の正暦2年(991年)に円融上皇の崩御に伴い詮子が出家するとともに停止となったが、翌年には左近衛中将に任じられている。

長徳2年(996年)、疫病の流行などで公卿が大幅に入れ替わるとともに、藤原道長が左大臣として首班となると、正光の兄の藤原顕光が次席の右大臣となった。
この年の4月には正光は公卿に次いで重要な役職である蔵人頭に任じられ、さらに2年後の長徳4年(998年)には大蔵卿を兼ねた。
しかし、人脈としては兄である顕光よりは、兼家から引き続いてその子である道長に近かったようで、長保2年(1000年)に道長の娘である藤原彰子が中宮となると中宮亮に任じられている。
のちに三条天皇の皇后藤原せい子の立后に際して、対立する中宮藤原妍子の父であった道長派の一員として、立后の儀式に出席するよう求めた使者に瓦礫を投げつけたりしていることが藤原実資の日記に記されている。
これは兄の一人である藤原時光が同様に宮中からの退出を道長に妨害された一条天皇の中宮藤原定子のために退出の上卿を務めたこととは対照的である。
ここに、兄弟で政権中枢である兼家-道長親子との距離のとり方の違いが表れている。

その後、寛弘元年(1004年)2月には参議となり、同年10月には従三位に昇るなど、上級貴族の一員となった。
しかし、その後は特に官位は変わることなく、顕光や時光などの兄に先立って長和3年に58歳で死亡した。

なお、「枕草子」には「大蔵卿ばかり耳とき人はなし」で始まる段があるが、これは正光のことを指しているとされる。
この中で遠くに座っていた正光が、清少納言が隣にいた人でも聞き返してくるくらいの小声で言ったことを、しっかり聞き逃さなかったことが書かれている。

[English Translation]