藤原良相 (FUJIWARA no Yoshimi)
藤原 良相(ふじわら の よしみ/よしあう、弘仁4年(813年)- 貞観 (日本)9年10月10日 (旧暦)(867年11月9日))は、平安時代前期の公卿。
西三条大臣と号す。
経歴
834年(承和 (日本)元年)に蔵人になる。
承和の変に際して左少将として近衛府を率いて兵仗を収める。
848年(嘉祥元年)に参議となる。
右大弁などを経て、851年(仁寿元年)従三位中納言となる。
857年(天安 (日本)元年)右大臣となる。
859年(天安3年)正二位。
清和天皇に娘の藤原多美子を入内させ、また周囲からの人望も厚かった。
このことから、政権の首座にあった兄藤原良房からは常に警戒される存在であった。
866年(貞観8年)の応天門の変に際し、伴善男の告発を受け一旦は左大臣源信 (公卿)の逮捕命令を下す。
しかし、信の無実を訴えた良房によってこれを阻止され、以降は影響力を失った。
翌867年(貞観9年)に死去。
贈正一位。
今昔物語集に収録された説話の中では、次のように記されている。
一旦病を得て死去し地獄で閻魔大王の目前に引き据えられる。
しかし、小野篁の執り成しによって赦され冥界から帰還した。
息子の藤原常行は順調に出世し若くして大納言まで昇ったものの早世してしまった。
その後公卿を輩出できず、大鏡では子孫の不振ぶり語られている。