藤原菅根 (FUJIWARA no Sugane)
藤原 菅根(ふじわら の すがね、斉衡3年(856年) - 延喜8年10月7日 (旧暦)(908年11月3日)は、平安時代前期の貴族・学者。
藤原南家の一族で、藤原黒麻呂の孫・右兵衛督藤原良尚の子。
字は右生。
従四位・参議。
贈従三位。
経歴
元慶8年(884年)に文章生に補される。
同年に因幡国掾に任じられ、後に少内記に転じる。
寛平2年(890年)対策に及第。
寛平5年(893年)の敦仁親王立太子に際して菅原道真の推挙で春宮坊侍読となり、親王に『曲礼』・『論語』・『後漢書』などを講じる。
後に道真の推挙で従五位下に叙せられた。
寛平9年(897年)に敦仁親王が醍醐天皇として即位すると、昇殿を許されて勘解由使兼式部少輔、昌泰2年(899年)には文章博士となり、天皇の御前で『史記』を進講した。
翌年には蔵人頭兼左近衛少将となる。
昌泰4年1月25日 (旧暦)(901年2月16日)に発生した昌泰の変では、藤原時平・藤原定国らに加担して、菅原道真の左遷を諫止するために内裏に参内しようとした宇多上皇を内裏の門前で阻んだ。
これは『大鏡』・『菅家文章』に載せられた著名な話であり、『北野天神縁起』ではかつて宮中にて道真に衆前で頬を打たれた屈辱を晴らそうとしたとされ、後年菅根が道真の祟りを受けて死んだとされる伏線となる話であるが、『扶桑略記』によれば菅根のみならず、道真の盟友であった左大弁兼侍従紀長谷雄も上皇の参内を阻止したとされることや、後世の書籍である『長秋記』には宇多上皇が天皇在位中に天皇の許可の得ない上皇の参内を禁じたとする記述を載せていることから、藤原時平もしくは醍醐天皇の命令に従ってその職責を果たしたに過ぎないとする見方もある。
なお、上皇の参内阻止の責任を取らされて翌日に大宰大弐に一旦左遷させられるが、翌月には九州へ出発することなく前職に復職、更に式部少輔に再任されて権左中弁を兼務している。
延喜3年(903年)従四位下に叙せられて蔵人頭に再補され更に式部権大輔を兼任、翌年には更に春宮亮を兼ねた。
延喜8年(908年)に参議に任じられるが、同年に雷に打たれて死去。
菅根の子孫は息子・元方が文章生から大納言に昇って以後は振るわなかった(菅根の曾孫・元方の孫の藤原保輔は盗賊として著名)が、彼を先駆者として藤原南家から文章博士が輩出されるようになった。