藤原道頼 (FUJIWARA no Michiyori)

藤原 道頼(ふじわら の みちより、天禄2年(971年) - 長徳元年6月11日_(旧暦)(995年7月16日))は、平安時代中期の公卿。
関白藤原道隆の庶長子。
母は伊予国国司藤原守仁の娘。
正室は藤原永頼の娘。
子に藤原忠経。
幼名は大千代。
祖父である藤原兼家の養子となり、正三位大納言に昇った。
義父の屋敷であった山井殿を継承したことから「山井大納言(やまのいのだいなごん)」の異名がある。

藤原道隆の長男として生まれたが、母親の身分が低かった事から異母弟藤原伊周よりも低く置かれていた。
道隆の父・兼家は道頼を可愛がり、道隆に乞うて自分の養子に迎えて6男として育てる事にした。

寛和元年(985年)に叙爵を受けて侍従、近衛中将などを歴任後、永延2年(988年)に蔵人頭に任じられた。
正暦元年(990年)5月13日 (旧暦)に参議に昇進するも、この年に養父・兼家が薨去して実父・道隆が後を継ぐと不遇に置かれる事になる。

翌年9月7日 (旧暦)に伊周とともに中納言に任じられるが、伊周は翌年には大納言に昇進して官位を抜かされ、正暦4年(993年)8月28日 (旧暦)に内大臣に昇った伊周の後任として大納言に任じられる有様であった。
これには伊周と親しかった清少納言でさえも『枕草子』において疑義を挟んでいる程であった。

長徳元年に大流行した麻疹に倒れて25歳の若さで薨去している。

[English Translation]