藤原隆忠 (FUJIWARA no Takatada)

藤原 隆忠(ふじわら の たかただ、長寛元年(1163年)-寛元3年(1245年))は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての公卿。
父は摂政松殿基房、母は内大臣三条公教の娘。
長男でありながら傍流とされたため、「松殿家」は名乗らずに「大覚寺左大臣」と号した(ただし、文献によっては便宜上「松殿 隆忠」表記を用いているものもある)。

摂関家である松殿基房の長男に生まれたが、弟の松殿師家が生まれると、母方の祖父が太政大臣を務めた師家の方が家柄が格上と言う事で嫡男とされてしまい、隆忠は「落胤」(当時においては庶子の意味)と呼ばれていた。

承安 (日本)4年11月10日_(旧暦)(1174年)、正五位下侍従に叙せられるが、当時の慣例では関白の子であっても初任官の時には嫡男のみに正五位下が授けられてその他の子は従五位上が授けられる慣例であったために、基房の弟・九条兼実がこれを激しく非難している(『玉葉』)。

その後、治承3年(1179年)に父が平清盛によって流刑にされると連座して官職を奪われてしまう。
4年後に中納言として復帰するとその後は順調に出世して、建仁元年(1201年)に内大臣となり、元久元年(1204年)には右大臣となって、元摂政内大臣の散位官のまま留め置かれた異母弟・松殿師家の官職を追い越した。
やがて、承元元年(1207年)に左大臣、建暦元年(1211年)には従一位に昇った。
承久の乱直前の承久2年(1220年)に出家して政界から引退した。

近年では、『六代勝事記』の作者として有力視されている。

[English Translation]