藤原雅教 (FUJIWARA no Masanori)

藤原 雅教(ふじわら の まさのり、永久 (日本)元年(1113年)-承安 (日本)3年2月11日 (旧暦)(1173年3月26日))は、平安時代後期の公卿。
藤原家政の長男。
母は藤原顕隆の娘。
子に藤原雅長がいる。
初名は政範。

元永元年(1118年)に従五位下に叙され、以後各地の受領や民部省の官を歴任する。
また、鳥羽法皇のもとで院庁別当を務めた。
この功績により、仁平2年(1153年)に刑部卿となり、久寿元年(1154年)には右中弁、同3年(保元元年/1156年)に蔵人頭を兼ねた(頭弁)。
同年の保元の乱においては、乱の勃発に先立ち後白河天皇からの命を受け、藤原忠実・藤原頼長父子が全国の荘園から武士を動員することを禁ずる綸旨を、申次として全国の国司に発給する役目を果たした。
乱の後の異動によって、9月13日 (旧暦)に正三位参議に任じられた。
永万元年(1165年)8月14日 (旧暦)に官職を辞して出家した。

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