藤原顕信 (FUJIWARA no Akinobu)

藤原 顕信(ふじわらの あきのぶ、正暦5年(994年) - 万寿4年(1027年)5月14日 (旧暦))は、平安時代の貴族。
藤原道長の三男、母は源明子。
法名長禅。

右馬頭の職にあった寛弘9年正月19日(1012年2月19日)、世を儚み行願寺(革堂)の行円の許を訪ねる。
その教えに感銘を受け、そのまま剃髪し、比叡山無動寺に出家した。
その将来に期待していた両親は、大いに嘆き悲しんだと言われる(『大鏡』)。

ただし、顕信の出家の2ヶ月前にあった事件が出家の一因であったとの説がある。
寛弘8年12月15日、藤原伊周の子藤原道雅と道長の子藤原頼宗(高松三位中将)及びその舎弟が、派遣先の北野の斎場にて他人の悪口を言い合っていたことが発覚している(『小右記』)。
『小右記』では頼宗の弟が誰であるかは明らかにはされていないものの、状況的に道雅・頼宗と居合わせられる弟は顕信以外にはいなかったと考えられる。
その4日後の19日、三条天皇から道長に対して藤原通任の参議昇進で空席となった蔵人頭に顕信を就ける意志を告げたところ、道長が顕信は「不足職之者」で「衆人之謗」を招くとして辞退を申し出ている(『権記』)。
道長の辞退の理由は15日の一件と考えられているが、同時に天皇の前で父親から「不足職之者」と評された顕信は、自己の将来に対する不安を抱えていたことが突然の出家につながったというものである。

その後、無動寺から大原 (京都市)に移って仏道修行に励んでいた(『御堂関白記』長和3年8月9日条)が、余命短い事を悟って延暦寺の根本本堂に2週間籠った後に無動寺にて病死したという(『栄花物語』巻15)。

[English Translation]