藤掛永勝 (FUJIKAKE Nagakatsu)
藤掛 永勝(ふじかけ ながかつ、弘治 (日本)3年(1557年) - 元和 (日本)3年6月5日 (旧暦)(1617年7月7日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。
織田氏の一族。
その生涯
弘治3年(1557年)、織田永継の子として生まれた。
永禄元年(1558年)に永継が死去した後、外祖父・藤掛善右衛門に養育されたことから藤掛姓を称した。
永禄10年(1567年)ころ、織田信長に仕える。
織田氏と浅井氏との婚儀に際しては、永勝は信長の妹お市の方に随伴して浅井氏に仕える。
小谷落城時はお市や淀殿などを救出して織田氏に帰参した。
天正7年(1579年)、信長の四男於次(羽柴秀勝)が豊臣秀吉に養子入りすると、信長の命によってその補佐役を務めた。
信長の死後、秀勝が丹波国一国の国主に封ぜられるや、同国氷上郡小雲にて6000石を与えられた。
小牧・長久手の戦いにも秀勝と共に参戦している。
天正13年(1585年)に秀勝が病死した後、秀吉の直臣となって丹波上林1万3000石を領し八津合城を築いた。
以後、小田原征伐や朝鮮の役にも参戦した。
とくに文禄の役では渡海して晋州城攻めで武功を挙げた。
関ヶ原の戦いでは西軍に与した。
大坂城下の高麗橋を警備した後、丹後国田辺城 (丹後国)攻めに参加した(田辺城の戦い)。
そのため、戦後は丹波何鹿郡上林6000石に減封されたとも、一旦改易された後に改めて上林6000石に封ぜられたともされる。
元和3年(1617年)6月5日、京都にて死去した。
享年61。
家督は子息の藤掛永重が継承した。
江戸時代を通じて、藤掛氏(藤懸氏)は上林八津合(現在の綾部市八津合町)に陣屋を構える大身旗本(4000石)として存続した。