藤間勘右衛門 (FUJIMA Kanemon)
藤間 勘右衛門(ふじま かんえもん)は、藤間流勘右衛門派宗家家元の名跡。
3代目以降、歌舞伎役者が兼ねて襲名している。
初代
藤間 勘右衛門(文化 (元号)10年(1813年) - 嘉永4年8月12日 (旧暦)(1851年9月7日)) 初世藤間流勘右衛門家元。
父は長唄の名手・富士田勘右衞門(後の3代目大薩摩文太夫)。
江戸の生まれ。
6歳で4代目藤間勘兵衛の門下となる。
一時市川團十郎 (7代目)の門下で市川金太郎を名乗る。
1843年に舞踊に専念し津打治三郎を名乗る。
1845年に勘右衛門と改名。
1851年に若年で病死。
2代目
藤間 勘右衛門(天保11年2月12日 (旧暦)(1840年3月15日) - 大正14年(1925年)1月23日) 本名は藤間金太郎。
2世藤間流勘右衛門家元。
「浜町の藤間」「大藤間」と言われる
初代の実子。
湯島天神町の生まれ、最初は歌舞伎役者の市川團十郎 (7代目)の門下。
初名を藤間金太郎。
12歳で父が他界し藤間勘十郎の門下で19歳で2代目勘右衛門を襲名。
一時1867年に西川扇蔵の養子となり6代目西川扇蔵を名乗る。
しかし、明治4年に勘右衛門に戻る。
花柳流の花柳壽輔 (初世)が市川團十郎 (9代目)と対立し決別。
その後を團十郎から迎え入れられ引き立てられる。
團十郎とのコンビで「鏡獅子」「素襖落」などを振り付け、他にも坪内逍遥の新歌舞伎「お夏狂乱」等も手がけ一時代を築いた。
今日にもその踊りは受け継がれている。
「浜町の藤間」「大藤間」と言われる。
晩年は藤間勘翁を名乗る。
生年月日は2月20日 (旧暦)とも。
養子が3代目勘右衛門。
3代目
松本幸四郎 (7代目)項参照。
4代目
尾上松緑 (2代目)項参照。
5代目
尾上辰之助 (初代)項参照。
6代目
尾上松緑 (4代目)項参照。