蘇我果安 (SOGA no Hatayasu)
蘇我果安(そがのはたやす、生年不明 - 天武天皇元年(672年)7月2日?)は、日本の飛鳥時代の人物である。
旧仮名遣いでの読みは同じ。
姓(カバネ)は臣。
671年に御史大夫となり、大友皇子(弘文天皇)および他の4人の重臣とともに、重篤の天智天皇の詔を奉じることを誓った。
天智天皇の死後、672年の壬申の乱で大友皇子の将軍になったが、内訌を起こして自殺した。
事績
蘇我果安は蘇我倉麻呂の子で、蘇我馬子の孫にあたる。
倉麻呂の系統は645年に蘇我蝦夷と蘇我入鹿が滅んでから蘇我氏の本流になった。
果安のほかに蘇我石川麻呂、蘇我日向、蘇我赤兄、蘇我連子が兄弟としている。
蘇我果安は、天智天皇10年(671年)1月5日に、巨勢人、紀大人とともに御史大夫になった。
同日に大友皇子が太政大臣、蘇我赤兄が左大臣、中臣金が右大臣に任命されており、御史大夫はこれに次ぐ重職であった。
その年の10月17日、重病の天智天皇は大海人皇子(後の天武天皇)を大殿に呼び入れた。
このとき大海人皇子は、皇后を次の天皇にたて、大友皇子を皇太子にするよう進言し、あわせて自らの出家を申し出た。
天皇に疑われていることを悟り、謀反の疑いを解きつつ近江宮から離れたものと考えられる。
2日後、僧の服を着て吉野に向かう大海人皇子を、果安は蘇我赤兄や中臣金とともに莬道(宇治市)まで見送った。
11月23日に、大友皇子を含めて上に挙げた六人の重臣は、内裏の西殿の織物仏の前で誓盟を交わした。
まず大友皇子が手に香炉をとって立ち、下記のように誓った。
「六人心を同じくして天皇の詔を奉じる。」
「もし違うことがあれば必ず天罰を被る。」
あとの五人も香炉を手にして次々に立ち、下記のように泣きながら言った。
「臣ら六人、殿下に従って天皇の詔を奉じる。」
「もし違うことがあれば四天王が打つ。」
「天神地祇も誅罰する。」
「三十三天はこのことを証し知れ。」
「子孫が絶え、家門が滅びよう」
29日に五人の臣は大友皇子を奉じて天皇の前で誓った。
以上の『日本書紀』の記述では「天皇の詔」の具体的内容が明らかにされないが、一般には大友皇子を次の天皇に擁立することと理解されている。
29日に五人の臣は大友皇子を奉じて天智天皇の前で盟した。
内容は不明だが、前の誓いと同じだと思われる。
12月3日に天智天皇は死んだ。
大海人皇子は翌年の6月22日に反乱に踏みきり、美濃国の不破郡に兵を集めてそこに移った。
このとき、山部王、蘇我果安、巨勢比等(巨勢人)が、数万の兵力を率いて大海人皇子を討つべく不破に向けて進発した。
しかし7月2日頃、犬上川の岸に陣を敷いたとき、山部王は果安と比等に殺された。
その理由は『日本書紀』に記されない。
混乱のため進軍が滞った。
果安は帰ってから首を刺して自殺した。
壬申の乱が大海人皇子の勝利で終わってから、果安の子は配流された。
結局内訌の性質はわからないが、少なくとも果安の側に大海人皇子に靡くような行動はなかったのであろう。