蘇我赤兄 (SOGA no Akae)
蘇我赤兄(そがのあかえ、推古天皇31年(623年)? - 没年不明)は、日本の飛鳥時代の人物である。
旧仮名遣いでの読みは同じ。
姓(カバネ)は臣。
宗我舎人(そがのとねり)を別名とみる説と、別人とみる説とがある。
658年に有間皇子を謀反に誘い、その後に事を通報して皇子を死に至らしめた。
天智天皇に仕えて669年に筑紫率、671年に左大臣になった。
672年の壬申の乱のときは大友皇子(弘文天皇)側の重臣で、敗れて捕らえられ、子孫とともに流刑になった。
蘇我氏は飛鳥時代の有力氏族である。
赤兄の年齢について、『公卿補任』は天武天皇の元年(672年)8月配流に続けて「年五十」と記す。
これを信じるなら生年は推古天皇31年(623年)となる。
父は蘇我倉麻呂(雄当)で、兄に蘇我石川麻呂、蘇我日向、蘇我連子、蘇我果安がいる。
娘の常陸娘は天智天皇の嬪になり山辺皇女を生んだ。
大蕤娘は天武天皇の夫人になり穂積親王、紀皇女、田形皇女を生んだ。
有間皇子の変
斉明天皇4年(658年)に天皇が南紀白浜温泉(温泉)に旅行したとき、赤兄は都の複都制になった。
その留守の11月3日、蘇我臣赤兄は、有間皇子に次のように言った。
「天皇の政治には三失がある。
大きな倉庫を建て民の財を集めたのが一つめ、長い運河を掘って公の糧を費やしたのが二つめ、舟に石を載せて運び丘を作ったのが三つめである」
有間皇子は赤兄の接近を喜んで、挙兵の意思を告げた。
5日に有間皇子と自宅で密議したところ、脇息が折れたため不吉だということになり、陰謀を止めることを互いに誓った。
有間皇子が自宅に帰ったその夜、赤兄は物部朴井鮪に命じて宮殿造営の丁を率いさせ、市経にあった皇子の家を囲ませ、駅馬で天皇に急報した。
捕らえられて9日に中大兄皇子(後の天智天皇)の尋問を受けた有間皇子は、「なぜ謀反しようとしたのか」と問われて次のようにと答えた。
「天と赤兄が知る。
吾はまったく知らない」
有間皇子は11日に塩屋このしろ、新田部米麻呂とともに斬られ、守大石と坂合部薬(境部薬)は流刑になった。
『日本書紀』は上述の話のほかに「或本にいわく」として別の話を載せる。
それによれば、有間皇子と蘇我赤兄、塩屋小戈、守大石、坂合部薬は短籍で謀反を占った。
有間皇子は挙兵計画を語ったが、ある人が皇子はまだ19才なので早すぎると諫めた。
別の日に皇子が一人の判事と相談していたとき、皇子の脇息が折れた。
それでも皇子は中止せず、ついに誅戮された。
この事件について現代の歴史家の間には、中大兄皇子が有間皇子を除くために赤兄に指示して挑発させたという説と、赤兄が単独で有間皇子を陥れようとしたという説がある。
筑紫率、左大臣
天智天皇8年(669年)1月9日、蘇我赤兄臣は筑紫率に任命された。
同年10月16日に藤原鎌足が死んだ後、19日に天智天皇は鎌足の家に行って思いやりある詔と金香炉を与えた。
このとき大錦上蘇我赤兄臣が、天皇の命で詔を述べる役を果たした。
しかし『藤氏家伝』には、このとき遣わされたのは「宗我舎人臣」とある。
蘇我氏には蘇我入鹿が鞍作という別名をもっていた例があるので、赤兄と舎人の場合もそうだとみることもできるが、別人を指すとみる説もある。
この日付からすると、蘇我赤兄は筑紫国に赴任しなかったか、短期間で都に戻ったことになる。
赤兄の直前にみえる筑紫率は天智天皇7年(668年)7月任命の栗前王(栗隈王)で、赤兄の直後に見えるのは天智天皇10年(671年)6月に筑紫帥(率と同じ)に任命されたやはり栗隈王である。
いずれも『日本書紀』の任命記事だけで知られ、退任時と交代者についてはわからない。
この錯綜から、このあたりの書紀の記述に誤りがあるのではないかと考える歴史学者もいる。
天智天皇10年(671年)1月2日、蘇我赤兄と巨勢人が殿の前に進み、賀正のことを奏した。
赤兄の位はこのときも大錦上であった。
5日に、大友皇子(弘文天皇)が太政大臣、蘇我赤兄が左大臣、中臣金が右大臣、蘇我果安、巨勢人、紀大人の3人が御史大夫に任命された。
同じ年の11月23日、大友皇子と上記の左右大臣、御史大夫は、内裏の西殿の織物仏の前で「天皇の詔」を守ることを誓った。
すなわち、大友皇子が香炉を手にして立ち、次のようにと誓った。
「天皇の詔を奉じる。
もし違うことがあれば必ず天罰を被る」
続いて赤兄ら五人が順に香炉を取って立ち、泣きながら次のように誓った。
「臣ら五人、殿下に従って天皇の詔を報じる。
もし違うことがあれば四天王が打つ。
天神地祇もまた罰する。
三十三天、このことを証し知れ。
子孫が絶え、家門必ず滅びることを」
ここでいう「天皇の詔」の内容は不明だが、一般には天智天皇の死後大友皇子を即位させることだと考えられている。
29日に五人の臣は大友皇子を奉じて天智天皇の前で盟した。
これも内容が不明だが、前の誓いと同じだと思われる。
壬申の乱と配流
672年の壬申の乱で赤兄の活躍は特に伝えられないが、近江朝廷の最高位の臣下として大友皇子を補佐したと思われる。
最後の決戦となった7月22日の瀬田の戦いに、大友皇子(弘文天皇)とともに出陣したが、敗れて逃げた。
23日に大友皇子が自殺し、24日に捕らえられた。
8月25日に子孫とともに配流された。
配流の地は不明である。
中世に土佐国安芸郡 (高知県)で勢力を伸ばした安芸氏は、土佐に流された蘇我赤兄の子孫であると自称したが、確かなことではない。
安芸氏の出自については他にも諸説ありはっきりしない。
いずれにせよ彼をはじめとした倉麻呂の息子達は連子系の蘇我安麻呂(彼にしても、まもなくなくなったと推定される)以外は没落する事となり、蘇我氏高位不在の時代が長く続くこととなる。