西園寺公基 (SAIONJI Kinmoto)
西園寺 公基(さいおんじ きんもと、承久2年(1220年) - 文永11年12月14日 (旧暦)(1275年1月12日))は、鎌倉時代の公卿。
後堀河天皇(86代)・四条天皇(87代)・後嵯峨天皇(88代)・後深草天皇(89代)の四代にわたり仕え、正二位右大臣まで昇る。
父は太政大臣西園寺実氏。
弟に太政大臣西園寺公相がいる。
姉西園寺公子は後深草天皇の中宮。
子に権中納言西園寺実平がいる。
弟公相より一年早い元仁2年(1225年)に叙爵し、侍従・丹波権介・右近衛少将・播磨介・右近衛権中将などを経て、嘉禎2年(1236年)に従三位となり公卿に列したが、弟も同年に公卿となっている。
その後、弟は延応元年(1239年)に従二位・権大納言となっているのに対して公基が従二位になれたのは仁治元年(1240年)、権大納言となれたのは仁和2年(1241年)である。
これ以降、弟に官位上劣るようになる。
なお彼の大納言就任中、弟の他に叔父山階実雄も権大納言となっており、一族三人で大納言をやっていたことになる。
建長4年(1252年)には弟が内大臣となるが、公基は依然権大納言にとどまった。
建長5年(1253年)には右近衛大将に任命されたが、同年に弟は上格の左近衛大将となっている。
さらに正嘉元年(1257年)には公基が内大臣に、弟が右大臣にそれぞれ昇格。
公基はこの翌年に官職を辞している。
一方弟は在職し続け、文応2年(1261年)に朝廷の官職のトップ太政大臣に就任することになる。
公基は西園寺家の嫡男ではあったが、弟が太政大臣まで昇ったのに対して公基は右大臣どまりであったため、西園寺家嫡流の座もやがて弟の家系に移った。