西園寺公顕 (SAIONJI Kinaki)
西園寺 公顕(さいおんじ きんあき、文永11年(1274年) - 元応3年2月8日 (旧暦)(1321年3月7日))は、鎌倉時代後期の公卿。
主に伏見天皇(92代)から花園天皇(95代)までの四帝にわたり仕え、官位は従一位右大臣まで昇る。
父は太政大臣西園寺実兼。
母は内大臣花山院師継の娘。
兄に左大臣西園寺公衡、弟に太政大臣今出川兼秀がいる。
娘西園寺婉子は関白二条道平の正室。
正応元年(1288年)に叙爵。
以降累進して、正応3年(1290年)参議となり、公卿に列する。
正応5年(1292年)には伏見天皇の中宮西園寺鏱子の中宮権大夫に任じられる。
永仁6年(1298年)の天皇の譲位まで務めた。
同年権大納言に転じる。
徳治2年(1307年)には皇太子富仁親王(のちの花園天皇)の春宮権大夫となるも翌年の即位で辞職。
延慶 (日本)3年(1310年)には右近衛大将に任じられる。
応長元年(1311年)には右馬寮御監となるも正和元年(1312年)には任職を辞した。
正和4年(1315年)に従一位。
正和5年(1316年)には内大臣となる。
さらに文保元年(1317年)には右大臣に任じられるも辞職。
京極派の歌人として新後撰和歌集以下の勅撰和歌集に計24首採録されているが、政治的才能には乏しかったとされ、『花園天皇宸記』文保元年3月26・27日条には公顕が県召除目の大間書執筆を担当した際に、その作法が分らずに娘婿の二条道平が天皇の御前で舅に教えている有様に記主である花園天皇が憤慨したことが記されている。