西園寺寛季 (SAIONJI Hirosue)
西園寺 寛季(さいおんじ ひろすえ、天明6年12月5日 (旧暦)(1787年1月23日) - 安政3年2月12日 (旧暦)(1856年3月18日))は、江戸時代後期の公卿。
主に光格天皇(119代)・仁孝天皇(120代)の二帝に仕えた。
最終官位は正二位中納言。
実父は左大臣二条治孝。
母は参議徳川宗翰(水戸藩)の娘。
養父は左大臣西園寺賞季。
室に大谷光暉の娘、継室に大納言正親町公明の娘。
実子に近衛府西園寺治季、養子縁組に近衛府西園寺公潔(有栖川宮韶仁親王の王子)がいる。
二条治孝の三男として生まれたが、西園寺賞季の男子たちが相次いで早世し、相続人がいなくなっていたため、この寛季が西園寺家に養子に入って相続することとなった。
寛政6年(1794年)に叙爵し、以降清華家当主として速いスピードで累進し、寛政10年(1798年)には従三位となり、公卿に列した。
文化 (元号)3年(1806年)から文化9年(1812年)にかけてと文政3年(1820年)から天保3年(1832年)の二度にかけて中納言を務めたが、何を思ったか天保3年(1832年)に46歳にして出家すると以降は朝廷に出仕しなくなった。
唯一の子である西園寺治季は、父に先立って文政9年(1826年)に薨去している。
治季の死後、治季の子西園寺師季が誕生しているが、生後直後であるので、有栖川宮韶仁親王の王子を養子とし、西園寺公潔として西園寺家を相続させた。
なお、治季の実子の師季は、公潔が天保7年(1836年)に19歳にして薨去したために、その後を受けて西園寺家を相続している。