西河克己 (NISHIKAWA Katsumi)
西河 克己(にしかわ かつみ、1918年7月1日 -)は、映画監督。
鳥取県智頭町出身。
父は東京都庁の公務員。
略歴
大正 7年
- 鳥取県八頭郡土師村に生まれる
大正11年
- 上京(東京都大森 (大田区)へ)
昭和11年
- 高輪中学校・高等学校 卒業
昭和14年
- 日本大学藝術学部 卒業
昭和14年12月
- 松竹大船撮影所、入社
昭和15年9月
- 出征(東南アジア・中国)
昭和21年7月
- 復員後、松竹に復職
昭和27年
- 『伊豆の艶歌師』で初監督
昭和29年
- 日活に移籍
昭和31年3月
- 結婚(1女あり)
昭和44年
- 日活を退社
昭和54年
―日本大学芸術学部講師
昭和63年
- 日本大学大学院講師
平成 3年
- 勲四等瑞宝章受章
西河が生まれたのは鳥取県東部の智頭町土師地区。
父親の就職で一家が東京へ移るまでの4年余りを過ごした。
小説家志望であったが、次善の途として映画監督を志し、松竹大船撮影所に監督助手として入社。
当時は日本映画の第1期黄金時代ともいえる時代だった。
大学を卒業したのが日中戦争真っ只中であったため、松竹入社後1年を経ずして召集(結局2度応召した)されて旧満州やビルマへ出征、捕虜収容所生活も経験した。
戦後復員して昭和21年復職。
原研吉、渋谷実、中村登らの名匠に師事し、昭和27年助監督待遇のまま『伊豆の艶歌師』(主演佐田啓二)を初監督。
2本立て映画の1本、いわゆるシスター映画であった。
典型的な「大船映画」を数本撮ったあと、昭和29年日活の映画製作再開と同時に日活と監督契約した。
山本有三原作による社会派メロドラマ『生きとし生けるもの』(主演山村聡)を第1作に、日活での初期作としては『東京の人』(主演月丘夢路)、『美しい庵主さん』(主演小林旭)などがあるが、当然のように「大船色」が濃く、「日活っぽい」昭和35年の『俺の故郷は大西部』(主演和田浩治)は西河作品としては逆に異色である。
60年代に入ると『若い人』(主演石原裕次郎)、『青い山脈』(主演吉永小百合)、『伊豆の踊子』(主演吉永小百合)、『エデンの海』(主演高橋英樹 (俳優))、『帰郷』(主演吉永小百合)などの作品でその才能を遺憾なく発揮し、日本映画の全盛期を飾った。
中でも『伊豆の踊子』と『絶唱』(主演舟木一夫)はいずれもリメイク作品であるが、ともに前作を大きく上回ってヒットし、西河監督の地位を揺るぎのないものにした、まさに代表作といえる。
日活がロマンポルノ路線に転換する以前、昭和44年の『夜の牝 年上の女』(主演野川由美子)を最後にTV界に籍を移すが、昭和49年の『伊豆の踊子_(1974年の映画)』(主演山口百恵)のリメイクで映画界に復帰、山口百恵・三浦友和の共演で『潮騒_(1975年の映画)』(1975)、『絶唱_(1975年の映画)』(1975)、『エデンの海_(1976年の映画)』(1976)のリメイク作品や『どんぐりっ子』(主演森昌子)、『春琴抄_(1976年の映画)』(主演山口百恵)を監督した。
しかし、1983年製作の『スパルタの海』(主演伊東四朗)は、公開直前に、映画の舞台となった戸塚ヨットスクールが戸塚ヨットスクール事件で死亡事故が起こり、クランクアップ後にお蔵入り。
その後、戸塚ヨットスクールを支援する団体が著作権を購入し2005年9月にビデオ、DVDとして発売される。
1984年の劇画原作『生徒諸君!』(主演小泉今日子)は動員割れ、1985年の『ばあじんロード』(主演松永麗子)は諸処の事情により、未公開のままになっている。
松竹から日活に移ってプログラムピクチャーを多く監督した1950年代~60年代は、文芸・アクション・青春ドラマ・歌謡映画・メロドラマと多種多様のジャンルの広さで活躍した。
TV界に進出した70年代前半を経て東宝映画にて映画界に戻り、ホリプロ(元会長堀威夫氏)に吉永小百合作品を監督した経験から、山口百恵・三浦友和のゴールデンコンビで『伊豆の踊子』をリメイクする事になり、その後、『潮騒』『絶唱』『エデンの海』とリメイク作品の監督をし、その新鮮さと斬新な監督技法は日本映画界の中でも歴史に残る作品であり、代表作にリメイク作品が多いというのも特色である。
また、60歳を過ぎてからも森昌子、秋吉久美子、小泉今日子、松永麗子、富田靖子らの主演作を製作し、西河作品のスクリーンに「アイドル」を追いかける観客は2つの世代にわたることになった。
幼年時代を過ごした故郷への思い入れは深く、西河作品には鳥取県に関連したものが幾つか含まれる。
『絶唱』は原作は松江市だが、映画では鳥取砂丘と賀露港、そして智頭町が舞台に脚色されている。
また『悲しき別れの歌』(1965)、『夕笛』(1967)、『残雪』(1968)、『ザ・スパイダースバリ珍道中』(1968)などの作品では智頭好夫の名前で脚本を書いている。