諏訪頼満 (SUWA Yorimitsu)
諏訪頼満
室町時代後期の人物。
諏訪氏大祝家。
戦国時代 (日本)の人物。
諏訪氏惣領家。
諏訪頼満 (伊予守)
諏訪頼満(すわよりみつ、? - 文明 (日本)15年(1483年))は、室町時代の人物。
諏訪有継の子。
諏訪信満の弟。
諏訪頼長、諏訪継満の父。
大祝。
伊予守。
祭政分離のため、惣領は兄の信満が継ぎ、大祝は頼満が継承した。
このため諏訪氏は分裂し、頼満は惣領の信満としばしば対立した。
この対立はそれぞれの子の諏訪政満(惣領家)と諏訪継満(大祝家)との代にも継続し、ついに文明15年に、継満は金刺氏や高遠氏と組んで政満らを謀殺する(文明の内訌)。
しかし、惣領家の家臣の反撃に遭い、継満は伊那に逃亡する。
この混乱の中、隠居の頼満は病床にあったため逃げ切れず討ち取られている。
諏訪頼満 (安芸守)
諏訪 頼満(すわ よりみつ、文明 (日本)5年(1473年) - 天文 (元号)8年12月9日 (旧暦)(1540年1月17日))は戦国時代 (日本)の武将。
信濃国の戦国大名諏訪氏の当主。
諏訪政満の子で、諏訪頼重 (戦国時代)の祖父。
幼名は宮法師丸。
法号は碧雲斎。
安芸守。
文明15年1月8日_(旧暦)、一族の諏訪継満(大祝家)・金刺興春(諏訪下社金刺氏)・高遠継宗(高遠氏)の反乱(文明の内訌)によって父政満と兄を殺されたため10歳で家督を相続した。
成長すると金刺興春の子・金刺昌春を甲斐国に追放し、高遠継宗の子・高遠頼継を降伏させて諏訪郡一帯を統一し、さらに昌春を助ける甲斐の武田信虎とも戦う。
享禄元年(1528年)には国境の神戸境川(長野県諏訪郡富士見町)において信虎勢を撃破し、積極的に領国を拡大していった。
このように諏訪氏の最盛期を築き上げた頼満は、『諏訪氏中興の祖』と言われた。
享禄3年(1530年)4月18日 (旧暦)、嫡男諏訪頼隆が頼満に先立って31歳で急死、天文3年には嫡孫の諏訪頼重 (戦国時代)に家督を譲って出家して碧雲斎と名乗る。
享禄4年(1531年)には甲斐の国人領主らを後援した河原辺合戦(山梨県韮崎市)で敗退しており、天文4年(1535年)には信虎と和睦する。
信虎の娘を頼重に娶わせてともに小笠原長棟を攻めたが、背中に出来た腫瘍の悪化によって67歳で病死した。