豊原国周 (TOYOHARA Kunichika)
豊原 国周(とよはら くにちか、天保6年(1835年) - 明治33年(1900年))は幕末から明治にかけての浮世絵師。
本姓は荒川氏、俗称は八十八。
江戸京橋五郎兵衛町の湯屋(一説には江戸京橋三十間堀七丁目の家主)大島屋九十の二人兄弟の次男として生まれる。
母は同心荒川三之丞娘、八重。
画号は国周の他、一鶯斎、豊春楼、花(華)蝶楼、一桃。
画姓を豊原とした経緯は豊原周信への恩を忘れぬためだといわれる。
幼い頃はかなりやんちゃで近所から苦情が来ていたという。
しかし、びら屋で祭礼の際に用いられる地口行灯(もとの言葉を別のものに仕立てて楽しむ言語遊戯、つまりは語呂合わせである地口を、絵で行灯に描いてある。祭礼時に町の辻に飾ることが流行し、その絵の多くが浮世絵師によって描かれた)制作の手伝いをするなど、画才を示していた。
兄の長吉が南伝馬町に押絵屋を開業したことがきっかけで、長谷川派の豊原周信に師事し役者似顔を学び、羽子板押絵の原図を制作した(一説には羽子板師・に就いたとも言われる)。
数奇屋河岸にあった羽子板問屋明林堂の仕事を引き受け、その役者絵は評判が良かったという。
国周の墓所である本龍寺には、現存してはいないが、押絵師湯川周丸を発起人とした国周の辞世句「よの中の人の似かおもあきたれば ゑむまや鬼の生きうつしせむ」を刻んだ碑があったといわれるので、終生、羽子板絵とのかかわりが保たれたのだろう。
嘉永元年(1848)に歌川国貞(三代豊国)に入門する。
嘉永5年(1852)に豊国の役者絵の一部を描き、門人八十八と署名する。
安政2年(1855)頃より、最初の師である豊原周信と豊国の名前を合わせた画名である豊原国周と署名するようになる。
明治2年(1869)、人形町具足屋嘉兵衛を版元にし、彫工太田升吉による役者似顔大首絵を多数制作し、力量を示した。
このシリーズにより「役者絵の国周」として知られるようになり、後世、小島烏水によって「明治の写楽」と称せられる。
翌二年には大橋屋弥七から似顔大首絵を2枚、3枚続にした作品を出版した。
後年は伝統的な役者似顔絵の七分身像を多く描き、3枚続の画面に一人立ちの半身役者絵を描く大胆な構図の作品なども描いた。
顔貌描写に羽子板絵式の装飾味を持たせ、美人画にも独特のはれやかさを示した。
写真の流行する時代の影響を受け、明治3年(1870)に「写真所」と題した役者のブロマイドがあり、陰影法を用いた木版画を制作したが成功しなかった。
国周の役者絵は、戊辰戦争を受けて不況となった歌舞伎界を盛り上げたともといえる。
国周の門人は多く存在したらしいが、活躍したのは周重と楊洲周延の二人のみである。
国周は自らも認めているほどの変わった性格をしていたという。
住まいと妻を変えることが癖で、本人によると転居は117回であり、同じく転居の多かった北斎と比べ「絵は北斎には及ばないが、転居数では勝っている」と誇っていたという。
近所の空気が気に入らないといっては移転し、版元が絵を依頼しようとしても居所がわからず困ったという。
「今日転居して来て、明日厭気がさすと直ぐ引越し、甚しい時は一日に三度転じたが、その三度目の家も気に入らなかったが、日が暮れて草臥れたので、是非なく思い止まった」という話まである。
妻も40人余り変え、長続きすることは無かった。
酒と遊びが大好きで、画料が入っても宵越しの金は持たないとばかりにすぐ使ってしまい、晩年は着物一枚で過ごし舞台に出る役者をスケッチする「中見」の際には版元から着物を貸してもらうほどだったという。
しかし、困っている人を見ると助けずにはいられず、時には来客のものまで与えてしまうという非常識ぶりを発揮した。
このため、錦絵問屋の主人などは国周を訪問する際には高価なものを携帯することを避けたという。
国周の仕事ぶりをうかがわせるエピソードがあるのであわせて紹介する。
福田という版元は芝居が好きで役者絵を多く出版していた。
あるとき、国周が団十郎(九代目)の姿を描いた版画の本になる下絵が、団十郎に検査してもらったときに無くなってしまった。
とても良くできていたのでもう一度下絵を描いてくれと頼んだが、国周は同じものは二度と描かない、と断ったという。
国周の絵師としての誇りがこのような態度をとったのだろうが、いかにも江戸っ子というような印象を与える挿話でもあると思われる。
国周の画稿料は3枚続一組が6,7円を普通とし、彫師で版元を兼ねた彫長は平均4円50銭ないし5円で描かせていたという。