赤坂幸清 (AKASAKA Yukikiyo)
赤坂幸清(あかさかゆききよ、生年不詳-延元元年(1336年))は鎌倉時代末期から南北朝時代_(日本)にかけての伯耆国の武将。
官職は掃部助。
経歴
幸清は鎌倉末期ごろから伯耆国八橋郡中山町付近(現在の西伯郡大山町から東伯郡琴浦町赤碕町にかけての地域)に勢力を誇っていた土豪であった。
元弘3年(1333年)、船上山の後に鎌倉幕府方の中山城が攻略され、糟屋重行一族が敗走すると入れ替わる形で中山城に居城、周辺に勢力を扶植した。
延元元年、幸清は名和長年の軍に加わり、足利尊氏の軍と戦うも敗れ、京都の大宮付近で戦死した。
現在、琴浦町内には赤坂一族の墓と言われる五輪塔群が存在しており、その中の一基が幸清のものではないかと考えられている。
人物
幸清の人物像については大山寺を篤く信仰していたと伝えられる。
幸清の居住していた地域は大山権現に近い場所であり、日頃から権現への参拝を望んでいたという。
しかし、幸清は延元元年に討ち死にしたため、この願いは叶えられることがなかった。
なお、江戸時代頃の伯耆国(おそらく西部域)ではこの伝承を基にした「掃部殿の大山参りにて埒(らち)が明かぬ」ということわざが存在したといい、物事を先に延ばすことの意味で使用されたと伝えられている。