赤松則英 (AKAMATSU Norihide)

赤松 則英(あかまつ のりひで、生年不詳 - 慶長5年10月1日 (旧暦)(1600年11月6日))は安土桃山時代の人物で、播磨国の名門赤松氏最後の当主とされる。
阿波国住吉(板野郡23ヶ村)1万石領主。
赤松則房の子(次男)。
上総介。
ただし、則英の存在は史料的に確認されていない。

慶長3年(1598年)、父・則房の死により家督を相続する。
1600年の関ケ原の戦いでは西軍に与し、大坂天王寺より平野口の警備を受け持った。
決戦前に石田三成の居城である佐和山城本丸に籠城した。
しかし、東軍に寝返った小早川秀秋らの攻撃を受けて佐和山城は落城した。
則英は落城直前に逃亡したとされる。

逃亡後、福島正則を頼ったが、赦されず京都の戒光寺で自害させられた。

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