足利家時 (ASHIKAGA Ietoki)
足利 家時(あしかが いえとき)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府の御家人である。
父は足利頼氏、母は上杉重房の娘。
重房娘は頼氏の側室であったと考えられ、源頼朝の重臣であった足利義兼以来の北条氏を母としない足利氏当主となった。
生涯
家時の活動の初見は文永3年(1266年)に被官倉持忠行に袖判下文を与えたことである。
この時は7歳程度であったと考えられる。
文永6年(1269年)氏寺である足利鑁阿寺に寺規を定めるなど、興隆に力を注いでいる。
この頃には叔父であり家督代行であったと考えられる斯波氏の祖足利家氏が引退して、家時が正式に家督となったと思われる。
文永10年(1273年)に高野山金剛三昧院の僧法禅と所領を巡って訴訟となって争ったが、弘安2年(1279年)に敗訴している。
この頃、鎌倉幕府内では執権北条時宗の公文所執事(内管領)であった平頼綱と御家人の実力者であり幕府の重臣であった安達泰盛の争いが激化した。
時宗没後の弘安8年(1285年)11月には霜月騒動と呼ばれる武力衝突が起こり、泰盛は敗死し、以後頼綱の専制政治が始まる。
足利氏はこの頃泰盛に接近し、霜月騒動では一族吉良氏の足利上総三郎(吉良満氏か)が泰盛に与同している。
家時は前年弘安7年(1284年)6月25日に亡くなっているが、これは泰盛の強力な与党であった北条一門佐介時国の失脚に関連して自害したのではないか、とされる。
墓所は鎌倉に功臣山報国寺 (鎌倉市)で、家時は開基とされるが、報国寺の開基は南北朝期の上杉重兼である。
家時と関係の深い上杉氏が供養したのであろう。
置文伝説
足利氏には、先祖に当たる平安時代の源義家が書き残したという、「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という内容の置文が存在する。
義家の七代の子孫にあたる家時は、自分の代では達成できないため、八幡大菩薩に三代後の子孫に天下を取らせよと祈願し、願文を残して自害した。
足利尊氏や弟の足利直義はこれを実見し、今川貞世(了俊)もこれを見たと、貞世の著作である『難太平記』には記されている。
尊氏と直義は家時から三代の子孫にあたり、鎌倉幕府を滅ぼして、後醍醐天皇の建武政権樹立に多大な貢献をした。
しかし、最後の得宗北条高時の子北条時行が中先代の乱を起こして鎌倉を占拠したのに対し、天皇に無断で鎌倉に下って乱を平定したのを機に、建武政権から離反して再び武家政権を樹立する運動を開始している。
家時の願文が尊氏挙兵の動機とも考えられている。
家時の置文には偽作説も唱えられているが、家時が執事高師氏に遣わした書状を、師氏の孫で尊氏の執事となった高師直の甥である高師秋が所持しており、直義がこれを見て感激し、師秋には直義が直筆の案文を送って正文は自分の下に留め置いた、という文書が残っている。
これが『難太平記』のいう置文と同一のものであったかは不明である。