足利義視 (ASHIKAGA Yoshimi)
足利 義視(あしかが よしみ)は、室町時代中期から後期にかけての足利一族。
一時的に将軍継嗣になったこともある。
略歴
第6代将軍・足利義教の第10子。
母は日野重光の娘・日野重子。
第7代将軍・足利義勝と第8代将軍・足利義政の同母弟にあたり、堀越公方の足利政知は異母兄にあたる。
子に第10代将軍となった足利義材(足利義稙)。
はじめ天台宗浄土院 (京都市左京区)門跡として出家し、名は義尋(ぎじん)であった。
嗣子に恵まれない兄・義政の後継となったが、後に兄に足利義尚が生まれると、将軍位をめぐって対立して応仁の乱を引き起こす。
乱後は美濃に亡命し、甥の義尚と兄の義政の死後、子の義材を第10代将軍に擁立して自らは大御所(後見人)として幕政を牛耳ったが、兄の死から1年後に死去した。
還俗から応仁の乱へ
永享11年(1439年)1月18日、第6代将軍・足利義教の10男として生まれる。
はじめ出家して浄土院 (京都市左京区)の門跡となった。
寛正5年(1464年)に実子がなかった兄・義政に請われて僧侶から還俗して、義視を名乗り、兄の後継となった。
そして管領の細川勝元を後見人として次期将軍を約束され、義政の正室・日野富子の実妹を正室に迎えた。
今出川の屋敷に住したため、今出川殿と称された。
ところが寛正6年(1465年)、義政と富子の間に実子の足利義尚が誕生すると、富子は義尚の将軍後継を望み、義視らと対立するようになった。
9月には義視謀反の噂が立つが、義視は勝元に無実を訴え、義尚の乳父であった伊勢貞親が讒訴の罪を問われ、貞親派が失脚する文正の政変が起こった。
応仁元年(1467年)、足利将軍家の家督相続問題と畠山氏・斯波氏の家督相続問題などが関係して応仁の乱が発生する。
義視ははじめ勝元が率いる東軍に属したが、8月に周防国の大内政弘が上洛すると伊勢国の一色氏、北畠氏のもとへ逃れる。
応仁2年(1468年)には義政の説得で伊勢から帰京するが、義政と対立して室町亭を脱走し、山名宗全(山名持豊)の西軍に与して文明 (日本)元年(1469年)には四国・九州の諸大名を味方につけようと奔走している。
文明5年(1473年)、山名宗全と細川勝元が相次いで死去したため、文明7年(1475年)に義政と講和する。
しかし兄との溝を埋めることは難しかったため、美濃の土岐成頼のもとに亡命した。
復権から大御所へ
長享3年(1489年)に足利義尚が死去すると、義視は子の義材と共に上洛し、娘のいる京都三条の通玄寺に入った。
そしてここで出家して道存(どうぞん)と号した。
実は、義視は兄夫婦と長享元年(1487年)頃から和睦を模索し、子の義材を義政の養子として、継嗣の無かった義尚の継嗣にしていたとされる。
実際、この年に義材は従五位下・左馬頭に叙位・任官されている。
延徳2年(1490年)1月7日に兄・義政が病死すると、義視は日野富子と結託して7月5日に子の義材を第10代将軍に擁立し、自らは将軍の父として幕政を牛耳ったのである。
しかし応仁の乱であれほど敵対していた日野富子と反りが合うわけもなく、次第に対立して義視は富子の邸宅である小川第を破壊したり、領地を差し押さえたりした。
このため、富子は義材擁立に反感を持っていた管領・細川政元に接近したため、義視は政元との対立を不利と判断して、義材の将軍宣下の儀式を政元の屋敷で執り行なうなどの緩和策も示している(ただし、政元は将軍宣下の翌日に管領職を辞任している)。
最期
こうして細川政元と対立して状況が不利に陥る中での延徳3年(1491年)1月7日、奇しくも1年前に兄・義政が死んだのと同じ日に死去した。
享年53。
官職位階履歴
※日付=旧暦
1464年(寛正5年)12月2日、還俗。
従五位下に叙し、左馬頭に任官。
1465年(寛正6年)1月5日、従四位下に昇叙。
左馬頭如元。
11月20日、元服し、義視を名乗り、禁色賜る。
11月25日、参議に補任し、左近衛中将を兼任。
12月17日、従三位に昇叙し、権大納言に転任。
1466年(文正元年)1月6日、従二位に昇叙。
権大納言如元。
1467年(文正2年)1月5日、正二位に昇叙。
権大納言如元。
8月23日、伊勢国に出奔。
1468年(応仁2年)12月、解官。
1489年(長享3年)12月27日、出家。
1490年(延徳2年)7月5日、准后宣下。
1491年(延徳3年)1月7日、死去。
2月24日、贈従一位太政大臣。