身毛広 (MUTSUGE no Hiro)
身毛広(むげつのひろ、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物である。
牟宜都比呂とも書く。
姓は君。
672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側について活躍した。
身毛氏は牟義都国造の系譜をひき、美濃国の武芸郡(むげのこおり、後の武儀郡)にあった地方豪族である。
壬申の乱で大海人皇子が挙兵を決断したとき、広は吉野にいた皇子のそばにいた。
皇子自身か行動をおこす2日前、6月22日に、身毛広は村国男依、和珥部君手と3人で美濃国に先行するよう命じられた。
彼らの任務は、安八磨郡(安八郡)の湯沐令多品治に連絡し、まずこの郡を挙兵させることであった。
彼らは無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。
このおかげで大海人皇子は東国の兵力を集めることができた。
その後の広の活躍は不明だが、乱の後、80戸の封を与えられた(『続日本紀』大宝元年 (701年) 7月21日条)。
『日本書紀』は12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山位以上をあたえたと記してあるので、広もこれと同じかそれ以上の位を受けたと思われる。
その後の身毛広については記録がない。